玖
八重と暮らし始めてひと月が経った。
稽古を終えて帰ると、温かい飯と笑顔がワシを迎えてくれる。
と暮らしていたあの頃に戻ったような——そんな幸せな日々を送っていた。
ある日、近々巡業があるから八重と荷造りをしていた時のこと。
「羽織が……」
大事に大事に着ていた龍の羽織。その龍の下にある円の中に“雷電”の文字が刺繍されていた。
「その、こんなに立派な龍は私には縫えないけど、文字なら入れられると思ったの」
「そうか……」
「……駄目だった?」
不安そうな八重の言葉を耳に入れながら羽織をじっと見つめる。
はこの円の中にワシの四股名を入れて完成させるはずだった。それを八重が仕上げたことになる。
八重が刺繍した“雷電”の文字を手のひらで撫でた。
「ワシもここに四股名を入れたいと思っとった。以心伝心じゃのう!」
「よかった!」
不安げな声から一転、頬をぱっと赤く染めて明るい声色で八重は笑う。
この日からワシは
と八重の想いを背負って土俵に上がり続けた。
八重との生活は楽しくて幸せそのものだった。
街に出かけて大八車の跳ねた石礫が八重に当たった時も「痛っ」と小さく悲鳴を上げて石の当たった二の腕を擦るだけで、
のように倒れて死ぬことはなかった。それでも狼狽えてしまったワシを見て「おおげさね」と苦笑する八重にひどく安心を覚えた。
八重と夫婦になって二年経ち、家族が一人増える。
生まれた娘はとても愛おしくて、親になって初めておっとうとおっかあの気持ちがわかった。
(ちゃんと歩けるかのう……)
眠る娘の隣に寝転がり、歩けなかった自身の過去を思い出す。
毎日毎日痛くて仕方がなかった。娘にはあんな思いをしてほしくない。当時の両親のことを考えると胸が詰まったように苦しくなった。
幸いにも娘はすくすくと育ち、歩行にも何ら問題はなかった。
「こっちじゃ!」
「おいで、おいで!」
ふらふらよちよち覚束ない足取りで歩くわが子を八重と並んで呼ぶ。父と母、どちらを選ぶか密かに張り合っていたが、優しい娘はワシと八重の間に倒れ込むように到着した。
「あいこじゃったな」
「父ちゃんも母ちゃんも両方好きよねぇ」
八重が抱き上げてあやすとふにゃふにゃ笑うわが子。八重のように可愛いおなごになるだろう。
ワシは笑顔の二人を眺め、五年後、十年後を漠然と思い浮かべていた。大きくなった娘と会話をして、時々喧嘩もして、もしかしたら四人、五人と家族が増えてにぎやかになっているかもしれない。
そんな未来が来るものだと信じていたが——娘は五歳で息を引き取った。
八重のすすり泣く声がミンミンと鳴く蝉の声にかき消される。ワシは布団の上の小さな小さな力の抜けた手を握り、永い眠りに就いた娘の頭を撫でた。
「八重は……ワシより後に逝ってくれ」
と娘を看取り、更に八重までだなんて耐えられない。
泣きじゃくる八重を抱きしめて細い肩に顔を埋める。とうちゃん、とワシを呼んで駆けてきていた娘を思い出し、八重の肩を涙で濡らした。
のおっとうとおっかあの気持ちも知ってしまった。とてもじゃないが娘の死を知って、もう会えないとわかって「ありがとう」なんてワシには言えない。
四十四歳で現役を引退してからも藩のために相撲頭取として働いたが、どうにもうまくいかなかった。しかも松江藩唯一の抱え力士だった玉垣額之助が引退したことで抱え力士がいなくなり、やむを得ずワシが御前相撲を披露するなど半分現役のようなものだった。
完全に引退したのは四十九で、その後も藩の力士の世話や本場所出場の交渉などに奔走し、多忙な日々を過ごしていた。
けれど、藩主の斉恒様は相撲にあまり関心がない。抱え力士を次々と他藩へ移籍させ始めたことで松江藩との縁が切れ、ワシは八重の実家近くに滞在することになった。
子どもは亡くした長女しか授からなかったので八重と二人、夫婦で静かに穏やかな暮らしを送る。そんな最中、松江藩が再び力士を抱え直すと小耳に挟み、江戸へと戻った。
見込みのある力士を発掘し、指導する傍らで
の元に度々参る。少し苔むした墓石に触れると皴の刻まれた自分の手が目についた。
ここに眠る
は二十歳のままなのに、ワシはもう五十半ばになってしまった。
「もうすぐそっちに行くと思うが……こんなじいさんが会いに行っても迷惑かのう?」
そもそも歳が離れすぎて
はワシだと気づかないかもしれない。だからすぐに気づいてもらえるようにあの龍の羽織は絶対に持っていこう。
寺の外から「関さーん」と間延びしたワシを呼ぶ声が聞こえる。
おめったいのう。ゆっくり話もできん。
「また来るからな」
墓石を数回撫で、
に声をかけて手を放す。
おそらくあと数年で再会できるはずだ。それまでは藩のために働き、八重との時間を大切に過ごそう。
「いい天気じゃなぁ」
ワシを呼ぶ若い力士の元へ向かう途中で足を止め、曲がることが多くなった背中をぐんと伸ばして空を見上げる。
雲一つない抜けるような青空の先に、
が待っているような、そんな気がした。
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