捌
おはん改め八重を妻に迎えるにあたり、長屋を引き払うことになった。
ワシは
の骨壺を手にし、寺を訪れる。八重と暮らすのなら
とは一緒にいられない。
ふた月ほど前に依頼して建てた小さな墓の前に立つ。墓石には
の名が刻まれていて、指先でそれをなぞった。
改めて
はこの世にいないという事実を突きつけられたように感じて、久しく流していなかった涙が頬を伝った。
今までずっと一緒にいたのだからやっぱり離れるなんてできない。
ワシは骨壺を開け、一番上にあった小さな骨を砕かないようにそっと取り出して、首から提げていた御守袋の中に入れた。
「関さま」
「!」
背後から声をかけられ、急いで涙を拭って振り返る。背後にはこの寺の住職が立っていた。
「おはようございます。早速納骨をされま……」
「す、すまんのだが、急用を思い出した!ワシの代わりに納めてもらえんかのう?!」
「え……関さま!」
驚く住職に
の骨壺を手渡し、いたたまれない気持ちで寺を飛び出した。
(
、
……)
八重と暮らすから
を寺に預けると決めたのはワシだ。それなのに、いざその時が来たら気が引けてしまった。どうしても自らの手で
を墓に入れるなんてできなかった。
今日はこの後、ずっと手放せなかった
の着物や小間物を片付ける。だから、せめて骨のひとかけらくらいそばに置きたかった。
八重に対する後ろめたい気持ちが追いつかないようにしばらく走り、長屋の近くで足を止める。
「な、んで……」
長屋のある方向の空に黒い煙が立ち昇っていた。
カンカンカンカンと火事を知らせる
半鐘 の音が辺りに響き、周囲では怒号が飛び交う。
ざわざわと胸騒ぎに襲われ、こちらへ向かって逃げてくる人の流れに逆らって火元へと走った。
「太郎吉!無事だったか!!」
「寺に行っていて……それよりワシの長屋は?!」
ワシが長屋にいると思ったのだろう。師匠や他の力士たちが駆けつけていて、各々声をかけてくる。それに返事をしながら足を進め、ワシは言葉を失った。
と二人で借りている長屋がパチパチと音を立てて燃えている。隣の部屋からも火の手が上がっていて、そちらは勢いが強いため火元だと思われた。
火消したちが屋根に上って声を張り上げているが、炎は消える気配を見せず、このままでは——
「おい!やめろ!」
「離してくんろ!
の着物が!!」
着物が消えてしまう。そう思い、長屋へ駆け込もうとするワシを師匠が背後から羽交い絞めにして引き留める。
土俵の上でなら止められたかもしれない。でも
が絡むと別だ。
ワシは師匠を引きずるようにして一歩一歩足を進ませた。
(
……
……)
頭の中が
でいっぱいになる。
燃える長屋に近づくにつれ、焼ける木の臭いが鼻に入り、頬がじりじりと熱で炙られていく。
を焼いた時と同じだ。数年前の、ワシが燃やした
の姿がちらつく。あの日、灰になってしまった
。その記憶がありありと蘇ってきて、また涙が込み上げてくる。
「おい!太郎吉を止めろ!!」
風に乗って舞う火の粉が着物を焦がし、髪も頬も焼けるように熱くなったところで師匠が叫び、体がずんと重たくなった。それでも構わず、つま先で地面を削りながら数歩分また長屋に近づく。
の着物を片付けると決めていたけれど、こんな形で失いたくはなかった。
「ぐっ……ぅ…………」
しかし、ワシを阻止しようと師匠たちも必死で、ついに膝がガクンと折れてしまう。
「もう中に荷は残ってねぇんだろ!?」
「
の……着物が……!」
「っ……諦めろ」
師匠の口から絞り出された諭すような声を耳にし、急に力が入らなくなった。
「
……」
這って行こうにも前に進めなくてガリガリと指で地面に溝を作る。
師匠たちはもう大丈夫だと判断したのだろう。仰向けにしたワシの脇に腕を入れ、ずるずると引きずり、燃え盛る長屋から離した。
少しずつ遠くなる長屋。屋根を跳ぶ火消したちが周りの家々を壊している。
ワシはまた何もできないまま、長屋が焼け落ちるのを見ていた。
ぶすぶすと燻る柱や焼け落ちた梁を避け、地面に積もった木の燃えかすと灰の前に立つ。ここには
の着物や小間物を入れていた箪笥が置かれていた。
「なにも……残っとらんのう……」
数年、片付けることのできなかった
の私物が一日足らずで消え失せてしまった。
地面に膝をつき、灰を両手で掬う。持ち上げるともろもろと細かく砕け、風に乗ってさらさら流れていった。
手の中の灰がなくなるにつれ、ワシの傷だらけの手のひらが現れる。
ただ虚しさだけを胸にぼんやりと眺めていたら、黒の中に紅が見えてハッと息を飲む。風に飛ばされないように折り曲げた薬指で押さえ、他の指で周りの灰を払った。
「これは……」
端が焦げ、煤けた小さな紅い布地には見覚えがあった。
江戸に来てひと月かふた月、生活が落ち着き始めたころ、新しい着物が欲しいと言っていた
にワシが見繕ったものだった。
『まだ決まらんのか?』
『う~ん……これにしようかな……』
『はぁ?!似たようなモン持っとるじゃろ?』
『う、うん……』
『……この紅いやつがええ!』
『えっ……こんな鮮やかな小袖、似合うかな……』
『……似合ってるずら』
どこか恥ずかしそうに笑う
はひたすらに可愛かった。
ワシの選んだ小袖を買って、丁寧に大切に手入れをしながら着ていた
を思い出す。
勝手に流れていた涙を手の甲で拭い、御守袋から
の骨を出した。
「一緒じゃ……これからも一緒にいような」
紅い布に骨を包んで御守袋の中に戻す。
師匠は
も八重も愛してよいと言ったが、肉体のない者をどのように愛せばよいのだろう。
想い続けるだけだと忘れたくないことも忘れていきそうで怖い。でも焦げた紅い切れ端と
のかけらがあれば少しでも多くのことを覚えていられるはずだ。
ワシは、こんな愛し方しかできない。
>> 玖