漆
あれからおはんとの文のやり取りは続き、いつしかワシも文が届く日を楽しみに待つようになっていた。今日も飛脚から受け取ったおはんからの文を帰って早々いそいそと開く。
なんの変哲もない文で、いつもの如く季節の挨拶と最近店に来た変な客のことが書かれていた。おはんがどんな対応をしたのか思い浮かべ、くっくっと笑う。
読み終わり、早速返事を書くために出しっぱなしの紙に筆を走らせた。翌朝、稽古へ行きがてら飛脚に渡そう。
書き終えた文を卓に置き、布団に潜り込む。
この文をおはんはどんな表情で読むのだろう。笑ってくれると嬉しいが……。
ふわぁとあくびをし、目を瞑る。ワシはこの日、初めて
に話しかけなかった。
「最近、よく笑うようになったなぁ」
「あ……へぇ、そうっすか?」
師匠と二人、居酒屋で酒をちびちび飲みながら話していると急にそんなことを言われ、思わず自分の顔を触る。
今笑っていたのか——そもそも今まであまり笑っていなかったのかと気づく。
師匠は頬を擦っているワシを見て嬉しそうに笑った。
「
ちゃんが亡くなってからあまり笑わなくなってただろ?心配してたんだぜ」
「……すんません」
「謝ることじゃねぇよ。だいぶ落ち着いてきたか?」
「落ち着いたというか……その、相談してぇことがあって」
「お、どうした?」
口に運ぼうとしたお猪口の手を止め、師匠は真剣な顔つきでこちらを見つめる。その真っすぐな視線を真っ向から受け止めきれず、ワシは手元に目線を落とした。
手慰みにお猪口の縁をなぞり、頭の中で整理してから口を開いた。
「前に下総国に行った時、甘酒茶屋で
に似たおなごと会ったんです。その娘と文のやり取りをしていて——」
そこから先は言えなかった。口にしてしまえば音として耳に入り、蓋をして気づかないふりをしている気持ちを認めてしまう。
口を噤んで黙り込んだワシに、師匠は大きくため息をついた。
「その子のことが気になるんだろ?」
「う、……まぁその、ちぃっと気になります」
「お前にしては歯切れがわりぃな」
「その、
が亡くなってから、毎日欠かさず
の骨壺に話しかけてました。でも先日、届いた文に気を取られちまって、
のことをすっかり忘れてて……」
「うぅん……」
「それに、おはん——文をやり取りしている娘ですが、おはんのことが気になってるのも
を重ねてるんじゃねぇかと思うと……」
「……なぁ、太郎吉よ」
「はい?」
師匠に名前を呼ばれて顔を上げる。
「似た女を好きになるってのは別に悪いことじゃねぇだろ。単におめぇの好みなんだよ」
「ワシの好み……師匠の奥さんと妾さんも似てるんですか?!」
「今、その話はするな」
「すんません!」
奥さんと最近揉めたのかげんなりとした師匠に謝る。
「
ちゃんもおはんって子のことも好きでいいじゃねぇか」
「けど、
に対して後ろめたいというか……」
「もし、先に死んだのが太郎吉だったら、遺された
ちゃんには幸せになって欲しいって思わねぇか?他の男と一緒になることで幸せになるのなら……」
「い、いやじゃ!ワシはずっと
に想っていて欲しいし、他の男が
に触れるなんて考えたくもねぇ!!」
「お前なぁ……」
が他の男と懇ろになって抱かれ、子をもうけるなんて想像しただけでゾッとしてイライラもする。だからこそ、おはんのことが気になっても踏み出せない。
こうなったらおはんとの文も辞めたほうがいいだろう。辞めればこんなに悩まなくて済む。
にないがしろにしてしまったことを謝って、また長屋でのんびり暮らせばええ。
ぬるくなった酒を流し込み、一息つく。師匠も手酌で酒をおかわりし、ふぅと息を吐いた。
「俺のたとえが悪かったな。
ちゃんなら今の悩んでいるお前を見てどう思う?」
「今のワシを見て……」
師匠の問いに幼いころの記憶が蘇る。
歩けるようになったワシは、はじめは
に連れられて外を見て回った。けれどそのうち、同じ年ごろの同性と遊ぶことに夢中になり、
を置いていくようになった。
『あ、おはよう!太郎吉、今日は——』
『今日はみんなと遊ぶずら!!』
『ぁ……』
訪ねてきた
から逃げるように家を出て走った。
みんなの相撲を見たい気持ちがあったことは確かだが、それ以上に『女なんかと遊んでいるのか』とからかわれて恥ずかしかった気持ちが強かった。
走りながらチラッと肩越しに振り返ると寂しそうな顔の
が立ちつくしていたっけ。
その時はチクチクと痛んだ胸も、みんなの相撲を見ているとドキドキへ変わってしまった。
晩飯は時々、
と
のおっとうとおっかあと食べる日があってちょっと気まずかった。
『外は楽しいか?』
『うん……』
のおっとうに聞かれて小さく頷く。
とは遊んでいなかったからなんだか目を合わせられなかった。
は黙って汁物をすすっている。
晩飯をみんなで食べ始めて少し経ち、薪が切れそうだとおっとうたちが外へ取りに行き、おっかあたちはぺちゃくちゃと楽しそうに話している。
はぽりぽりと噛んでいた漬け物を飲み込み、ワシを見た。
『相撲、楽しいんだ』
『うん……』
淡々とした物言いは責めているように聞こえて縮こまってしまう。俯いてなにも言えなくなったワシの耳に、
の笑い声が聞こえて顔を上げる。
『楽しいならよかったね』
ワシがぞんざいな扱いをしたのに、
は気にする素振りを見せず、眩しそうに瞳を細めて笑った。その笑顔を見て、現金なワシの気持ちはぱぁっと晴れる。
『寅次が強くて!でもおらはまだ見てるだけで……』
『うん』
『けんども、いつかみんなと相撲をする!!』
『好きなものができてよかったね』
『うん!』
立って歩けるようになって外の世界を、相撲を知ったワシに
はひたすらに優しかった。
それからは食事そっちのけでわぁわぁと
にここ最近の出来事をまくしたてるように話した。そんなワシの一方的な話にも
はうなずき、たまに質問を投げかけてくれた。
話しているうちにどんどん楽しくなってきて、ワシは
と話をしたかったんだと気づく。自分から離れたというのに、そんなわがままを
は許してくれた。
それから数日後——“でぇだらぼっち”と呼ばれて泣いた日の夕方、おっかあの手伝いをしていると顔や腕に引っかき傷や痣を作った
が通りがかる。着物は破れ、鼻血も出ていた。
『どうしたずら!!』
おっかあが慌てて駆け寄って尋ねたが、
は瞳に涙を溜めて唇をぐっと噛みしめ、ぶんぶんと首を左右に振った。
『
……なにが……』
二人に近づいて
の顔を覗き込む。ワシと目が合った
は、わなわなと体を震わせてぼろぼろ大粒の涙を零した。
はひっくひっくとしゃくりあげるだけで何も言おうとしない。
ワシもおっかあも困り果てて顔を見合わせていたら、ヒュッと風切り音がして
の足元に小石が飛んできた。びっくりして石が飛んできた方向を見ると、ワシを“でぇだらぼっち”と呼んでおびえていたうちの一人がぼろぼろの姿でこちらを睨んでいる。
ワシの視線の先を追うように
も首を動かして同じ方向へ目を向けた。
『このよそもんの狂暴女!!“でぇだらぼっち”とお似合いずら!!』
と目が合った途端、そいつは大声で叫んだ。
は眉をギュッと吊り上げ、ふーっふーっと呼吸を荒げながらそいつの元へ向かおうと足を踏み出す。それをおっかあが抱きしめて止めた。
『太郎吉のために怒ってくれたんだなぁ……ありがとねぇ。でも
ちゃんがこんなに傷ついたら太郎吉が悲しむから、もっと自分を大切にしてくんろ』
『ぅっ……ぐ、……うぅ~っ……』
はうめき声を上げて、おっかあにしがみついて泣いた。ワシが力の入れ具合を誤って
の腕を折った時ですらこんなに泣かなかったのに。
『
……』
おっかあの言うとおり、怪我をしている
を見て胸が激しく痛くなったことを覚えている。
はおっかあから離れ、次はワシをぎゅぅと抱きしめた。
『ごめんね、我慢できなくって……まっ、また、相撲っ、できる、からっ……』
『うん……』
『わ、私っ、応援してるからっ……!!』
『うんっ……』
さっきもおっかあと泣いたのに、
の涙声につられて涙が込みあげてきた。
ワシを思って怒ってくれたことが嬉しい。でも
が怪我をして泣いていることが悲しい。
ワシは
を抱き返して肩を震わせる。
がここまでしてくれたのなら、何が何でもまた相撲をしようと心に誓った。
「——
はいつもワシを励まし、応援してくれました。だから今のワシを見て……多分頑張れって背中を押してくれると思います」
「俺もそう思う」
「!」
向かいの師匠は眉を下げ、口元には小さな笑みを浮かべていた。
「
ちゃんは太郎吉に幸せになって欲しいとずっと思ってたように見えた。だから今のうじうじ悩むお前の姿なんざ見たくねぇだろうよ」
「でも、それが間違っていたら……」
「そうだなぁ……間違ってたら、あの世に行ったとき二人で
ちゃんに謝ろうぜ」
「……はい」
師匠と頷き合って酒を口に含む。打ち明けたことでだいぶ気持ちが前向きになった。
師匠が言ったように、好きな人や物は増やしていいのだろう。ワシはただ背中を押して欲しかっただけなのかもしれない。
その日の晩、ようやく夢に
が出てきてくれた。
『他の人も好きになったの?もう、太郎吉はしょうがないなぁ』
故郷の菜の花畑で
は呆れたように笑っていた。
>> 捌