松江藩の抱え力士になってからは泉岳寺の花相撲や四谷、北陸へ巡業となかなかに忙しかった。そのぶん土産話も増えて、江戸へ戻ればに各地の話を聞かせた。
 あの骨の音が鳴って以来、が長屋で待ってくれているという気持ちがますます強くなっていった。
 そんな折、巡業で下総国へ行った際に立ち寄った甘酒茶屋“天狗さま”。
 旨かったらに土産として持ち帰ろうと、席についてそんなことをぼんやりと考えていた。

「お待たせしました」
「あぁ、ありが——」

 甘酒を運んでくれたおなごに礼を言おうと目を向けてワシはぽかんと口を開ける。

「あの……?」
!?」

 そこにはがいた。
 感極まって手を握ると「人違いです!」と顔を真っ赤にして振り払われてしまった。
 手を払われて若干傷ついたが、そのおかげで我に返る。確かにそのおなごの言うとおり人違いだった。彼女はによく似たこの店の娘だった。
 人違いとはいえ、軽率におなごに触れてしまったため、ワシは慌てて頭を下げる。
 そんなワシに、次は彼女の方が慌て始めた。

「間違いは誰にでもありますから!」
「すまん……」
「気になさらないでください」

 頭を上げたワシに見せる笑顔もに似ていて、胸が錐で刺されたかのようにズキズキと痛んだ。
 甘酒を卓に置き、小さくおじぎをして店の奥へ戻る後ろ姿を見送る。よりも頭ひとつ分高い彼女は、大八車が弾いた石礫が当たっても倒れはしないだろう。
 その日から下総国での巡業が終わるまで、毎日甘酒茶屋に足繁く通った。
 に似たおなごの名は“おはん”と言い、歳も同い年だった。
 おはんと話しているとなんだかと話しているような気持ちになって、久しぶりに心の底から笑うことができた。
 下総国での相撲も残すところ一日となり、ワシは持ち帰るための甘酒をおはんに注文した。

「明後日ここを発つから、明日でここの甘酒も飲み納めじゃ」

 おはんが運んできた甘酒を手に取ってそう告げた途端、彼女の顔がくもる。

「……寂しくなります」
「そうじゃなぁ……せっかく仲良く——」
「あの!」
「お、大きい声じゃのう」

 食い気味に声をかけられ、不覚にもビクッと肩が揺れてしまう。おはんは顔を赤くして、上目遣いでこちらをうかがってきた。

「あの、あの……文を送ってもよいですか?」
「文……いや、ワシは筆不精で……」
「筆不精でもかまいません。駄目ですか……?」
「ぅっ……」

 に似た顔で頼んでくるのは卑怯じゃ!
 口から小さいうめき声が漏れて、ワシはガシガシと頭を掻く。
 と二人で探したあの長屋の住所を教えるのか。そう思うとに対して後ろめたい気持ちが生まれてくる。かといって——
 ちらりとおはんを横目に見ると、眉を下げた不安そうな表情で涙ぐんでいた。
 うぅ、可愛いのう……。

「わ、わかった!ただ、そのワシからの文はあまり期待せんでもらえると……」
「大丈夫です!ありがとうございます!!」

 おはんが今にも泣き出しそうなので折れるしかなかった。どうにもに似た顔に弱い。
 明日、住所を教える約束をして店を出た。

 下総国から江戸へ戻って一週間が経ち、ワシのもとに文が届く。差出人は案の定おはんで、本当に送ってきたのかと感心した。
 手紙は季節の挨拶から最近起こった出来事などとりとめない内容だった。読んでいるとおはんと過ごした日のことが浮かんで、思わず口元が緩む。

(返事、書いてみるか……)

 確か買ってからほとんど使わずにしまいっぱなしの紙があったはずだ。記憶を頼りになんとか探し当て、しばし考える。両親以外に手紙なんて書いたことがないから書き出しがわからん。
 おはんからの手紙を見て真似をしてみようかとも思ったけれど、そのままだと真似をしたとすぐに気づかれるだろう。
 うんうんと悩んで筆を取る。ワシが何を書いてもすべて受け入れてくれる人にまずは書いてみよう。
 ワシは筆に墨を含ませた。


 昨年は羽織をありがとな。谷風師匠からも立派な刺繍だと褒められて、ワシは自分のことのように嬉しかった……と前にも話したのう。
 なにもかも話しているから書くこともないんじゃが、そういえば一度もに文を書いたことがなかったと思ってな。それに変な文でも許してくれるじゃろ?
 子どものころはよくが夢に出てきてくれたが、今はとんと出てきてくれなくて寂しい。
 あの日食べるはずだったのおやきが食べたい。“

 そこまで書いて筆を置き、寝転がる。

『あ、あのね、太郎吉……』

 あの日、顔を赤くしたは何を言いかけたのか。ワシも彼岸へ行けばと再会して話の続きができるじゃろうか。そして話の続きだけじゃなくて口吸いのその先も——恥じらう裸体のを想像し、むふふと笑い声が漏れた。
 へ手紙を書いたことで肩の力が抜ける。体を起こし、次はおはんに書こうと再び筆を握った。

>> 漆