伍
が亡くなって一年と少しが経ち、ワシは松江藩の抱え力士となった。四股名は同じく松江藩の抱え力士だった“雷電為五郎”から“雷電”を引き継いだ。
おっとうとおっかあには金四十両が贈られて、ひとまずほっとする。
おっとうとおっかあのことだから村のみんなと分け合うだろう。もっと頑張って稼がねぇとな。
「
、ワシの四股名は“雷電為右衛門”になったぞ。恰好ええじゃろう?」
いつものように
に話しかける。
『おめでとう!雷電なんてかっこいいね。名前負けしちゃいそう……冗談だよ、冗談!ごめんね。明日、ごちそう準備しておくからお祝いしよう!』
自分のことのように喜ぶ
の姿が浮かび、ワシは骨壺をそっと撫でた。
もし
が生きていたら今頃は夫婦になっていたかもしれない。
が待っていると言い聞かせていても明かりの灯っていない長屋に帰るのは寂しい。けれどここを出たくなくて、ワシは
との思い出に浸り、手に入らなかった未来を想像し続けている。
年が明け、師匠の代わりに大関として甲斐国で土俵に上がることとなった。
『俺の代わりだからな!気合い入れろよ!!』
気合いとそれから身だしなみがどうのこうの言ってワシの背中をバシバシ叩いていた師匠。身だしなみと言われても……いつもどおりでは駄目かのう。
新しく羽織を作ろうにも日にちがない。布団に潜り、どうしたものかと悩みながら
を見つめる。するとそんなワシに応えるようにカラ、と乾いた音が鳴った。
「!!」
あれは
の骨の音だ。
慌てて体を起こし、枕元の
行灯に火を点ける。
聞き間違えるはずがない。けれど音は骨壺からではなく、襖の向こう——隣の部屋から鳴った。
隣室は
とワシの着物が詰まった箪笥が置かれている。ワシの着物は少なく、四段中一番上の段しか使っていない。
誰もいないはずの部屋から、しかもなぜ
の骨の音がしたんじゃろうか。
「
……おるんか?」
ワシは声をかけながら襖を開けた。見知らぬ幽霊はちぃっとばかし怖いが、
なら怖くない。むしろいてほしいくらいだ。
しかしワシの願いも虚しく、隣室には箪笥やちょっとした備えつけの家具があるだけだった。
箪笥の前で着物の皴を
火熨斗で伸ばしていた
を思い出す。
家事をして、掛け持ちで呉服屋と合薬屋で働き、夜はご近所から頼まれた針仕事をこなしていた
。
そういえばこの箪笥、
が亡くなってからワシの使っていた引出し以外開けていない。黴が生えていないか体をかがめて他の引出しの匂いを嗅ぐがわからなかった。
(黴が生えていたらすまん!!)
ワシは手を合わせて
に謝り、二段目の引出しを開けた。
小さな花の絵が散りばめられた
の着物が目に入る。指先で突くとじっとり湿っていて、鼻を近づけると微かに黴の臭いがした。
ワシとしたことが!!早く着物を出していれば
の残り香を嗅げたかもしれんかったのに。
「うぅっ……」
が恋しくて涙が滲む。以前ほど泣かなくなったが、
が身に着けていた物を見るとどうにも涙腺が緩んだ。
乱暴に目元を擦り、三段目を開ける。そこにも着物と足袋や帯といった小物がしまわれている。
「ちっくい……可愛いのう」
小柄な
の足袋はとても小さい。ワシは足袋の中に指を三本入れ、自分の頬に足袋の底を当てた。
に踏まれても痛くなかったじゃろうなぁ。
の足の小ささを堪能したワシは足袋を引出しに戻し、一番下の四段目を開ける。
「これ、は……」
ワシをギラリとした双眸で睨みつける刺繡の龍が姿を現した。
引っ張り出して広げると、それは男性物の羽織だった。男性物といっても標準の規格よりも大きい。
この生地の色には見覚えがあった。
が夜な夜な繕っていたものだ。
『それ、まだ完成せんのか』
『もうすぐ……一旦は完成かな』
『一旦?』
『うん。あとは名前が決まらないと完成しなくて』
『……?』
『完成したら見せるから、それまで相撲頑張ってね』
『おう……?』
あの時はわからなかったが、龍のすぐ下に黒い糸で施された筆で描いたような円——この中にワシの四股名を入れるはずだったのだと今やっとわかった。
いつか羽織が必要になると考え、
は用意してくれていたのだ。
「っ……う~……」
羽織があると教えてくれた
。
逢いたい。逢えない。寂しい。夢枕にすら立ってくれない。
少し黴臭い羽織を抱きしめ、遠くへいってしまった
を想い、久しぶりにわあわあ声を上げて泣いた。
>> 陸