稽古を終え、兄力士たちと夕餉を済ませて家に帰る。

、今帰った」

 灯明に火を点けてに話しかけるが返事はない。ちっくいは、部屋の隅にある棚板の上にちょこんと納まっている。
 ワシは棚の前に行くと割らないように注意して骨壺を手に取った。は片手に収まる壷の中でカラ、と小さく乾いた音を鳴らす。手から台の上に骨壺を置き、座布団の上にあぐらをかいた。
 が骨になってからもうふた月になる。女遊びをやめたワシは、浦谷部屋と長屋の往復をするだけの日々を送っていた。
 と上京したことを知っていた相撲部屋のみんなは、長屋から通うワシを時折からかっていたが、最近は気を遣って浦谷部屋に住まないかともちかけてくる。それを毎回断ってこの長屋に帰り、にその日起きたことを話していた。

「今日の稽古はな——」
「  」
「師匠がお妾さんと喧嘩して——」
「  」
「夜は久しぶりに煮魚を…………」

 返事をしないを見ていると徐々に気持ちが沈んでいく。どうしてワシは今、一生懸命話しかけているんだ。
 ワシが夜遊びで帰りが遅い日、はうつらうつら舟を漕ぎながら繕い物をして帰りを待っていてくれた。もちろん帰りが遅いとは知らなかったからワシの分の食事を作っていて、捨てることはしなかったがその日のうちに食べられず、残ることが多々あった。チクチク言ってくるに待っていなくてもいい、なんて言ってしまい、少し険悪になったこともある。
 人なんていつ死ぬかわからない。村で餓死する人を見てきたのに、は死なないと——ずっとずっとワシのそばにいて当たり前だと思い込んでいた。

の飯が食いたいのう……」

 ぽつりと呟いてうなだれる。
 時々味付けに失敗して気まずそうにしていたのご飯をと食べたい。あの時間をもっと大切にすべきだった。
 立ち上がり、骨壺を棚に戻す。
 明かりを消して目が慣れるまで待ち、もはや万年床と化している布団に潜り込んだ。
 じっと棚を見つめていると置いてある小物の輪郭が浮かび上がってくる。ワシは眠りに就くまでを見つめることが習慣になっていた。
 骨壺を見つめてぐるぐる、ぐるぐると頭の中でのおっとうとおっかあの姿を思い浮かべる。

 の骨は二つの骨壺にわけていた。そのうちのひとつを故郷の両親の元へ届けたいと師匠に申し出て休暇をもらったことがある。
 江戸へ行く時は二人で歩いた道を一人で歩き、村に近づくにつれて重くなる足を叱咤して後ろ暗い気持ちで故郷の土を踏んだ。日も落ちかけていて薄暗いから外に人はおらず、少しほっとした。
 ワシはのろのろと実家へ向かい、うっすら明かりの漏れる家の前で立ち止まった。
 会話が弾んでいるのかおっとうとおっかあの笑い声が聞こえて、ワシは板戸を開けようと手を伸ばし、そしてピタッと止めた。
 他に二人いる。のおっとうとおっかあだ。
 隣の家へ目を向けると明かりが消えている。そういえばワシとが同い年だから両親同士もっと仲が良くなったと言っていた。ワシたちが出て行ってからもお互いの家を行き来しているのだろう。それがよりによって今日だなんて。
 どっと楽しそうな笑い声が板戸越しに聞こえる。今からこの中に入ってのことを話すのか。
 ずんと胃のあたりが重たくなった。三年前、村を出た時の光景が蘇る。

『しっかりちゃんを守るんだぞ』
『太郎吉、をよろしくなぁ』

 二人のおっとうからを任されたのに……。

『今生の別れでもないでしょう』

 泣いている両親に呆れていた。あの日からここには帰っていなくて、今生の別れになってしまった。
 心臓が握り潰されているように痛み、浅く短い呼吸しかできなくなる。じんわりと脂汗がにじみ出て、体にぴったりまとわりつく着物が気持ち悪い。の訃報を知った四人の反応を想像して手が震える。
 いっそこのまま帰ってしまおうか——そんな思いがよぎった時、カラと乾いた音が耳に入った。その音は風呂敷に包み、たすき掛けにして持ってきたの骨壺から聞こえた。
 風呂敷越しに壷を撫でる。
 そうじゃな……だっておっとうとおっかあのところに帰りたいよな……。
 のためだと思うとさっきまでの臆病な気持ちはいずこへと消え失せた。
 たとえのおっとうとおっかあからなじられたとしても、骨壺を受け取ってもらえればそれでいい。
 ワシはガラッと板戸を開けた。

「……太郎吉かい?」

 いきなり響いた戸の音に会話を中断した四人が一斉にこちらを見つめる。訪問客がワシだとわかり、おっかあが名前を呼んで顔をほころばせた。

「太郎吉!急にどうしただ?!先に文で教えてくれれば……あぁもう、上がるずら!」

 にこにこ笑うおっかあに手を引かれて、同じく笑顔の三人の近くへ連れていかれる。

「相撲はどうだ?おめぇは全然文を書かねぇから……少しはちゃんを見習って欲しいのう」
「太郎吉、娘は……は来てるのかい?」
「先に家で休んどるのならそろそろ——」

 三年ぶりに娘に会えると喜んでいるのおっとうとおっかあが腰を上げる。喜色満面な二人を見て、一瞬のうちに涙で視界がぼやけた。
 ワシは骨壺を落とさないように手で支え、外した風呂敷を板張りの床に置いた。

「…………は、ここに」

 風呂敷を捲って姿を現した小さな白い壷。
 おっとうもおっかあも、の両親も笑顔を消し、唖然とした顔で骨壺を凝視している。

「た、太郎吉、何の冗談を……娘と二人でからかって……」

 のおっかあがよろよろと壷に近づいて床に座り、震える手で蓋を開けた。
 中に詰められた骨を目にし、のおっとうは引き攣った笑みを浮かべる。

「こ、こりゃ犬か猫か?いくらなんでも悪趣味な……」

 の両親はぎこちなく笑い合って頷いていた。一方でおっとうはうなだれ、おっかあは青ざめて口を手で覆っている。息子がこんな冗談は言わないとわかっているからだ。
 ワシは土間に降りて正座をし、体を折って額を地面に擦りつける。

は……はッ……!」

 声が震え、鼻の奥がツンと痛む。けど今泣くのはワシではない。
 腹にぐっと力を入れて声が震えないようにし、あの日を思い出しながらの身に起きたことを話した。

 と恋仲になって出かけて——

『久しぶりにおやきが食べたいね』

 そう言って蕎麦の実を買った。

『太郎吉が挽いてね』

 ワシを見上げて笑う

『あ、あのね、太郎吉……』

 ワシの親指を握って頬を真っ赤にさせていた。今だって鮮明に覚えている。忘れられない。忘れられるはずがない。
 ——
 飛び出そうになる嗚咽を堪え、言葉を詰まらせながらも話し終える。

「……小さいころから娘は太郎吉を好いとった。太郎吉も憎からず思っとるように見えたから任せたんじゃ」

 話を聞き終えたのおっとうが土間へ降りて土下座するワシの傍らに立つ。感情がこもっていないように感じられた言葉に、ワシは殴られると思って歯を食いしばった。
 江戸へ発つを見送る時、あれだけ泣いていたのだからワシに対して怒りを抱いても仕方がない——そう思ったのに。

「やっぱり太郎吉に任せてよかった。を連れ帰ってくれてありがとなぁ」
「……は…………?」

 ワシの肩に触れたのは硬い拳ではなく、温かい手のひらだった。驚いて顔を上げると、頬を涙で濡らしたのおっとうの哀しそうな笑顔があった。

「おれらよりも先に逝っちまって親不孝な娘だったけど……大好きな太郎吉と恋仲なれて幸せだったにちげぇねぇ。太郎吉、ありがとなぁ」

 のおっとうはそう言ったっきり俯いて地面に涙をぽたぽた落とす。その涙につられて、堪えきれなくなった溜まりに溜まった涙がうめき声とともにあふれ出た。

「太郎吉、はいつも文にお前さんのことばかり書いてたよ。あの子のそばにいてくれてほんにありがとねぇ」

 のおっかあもワシの隣にしゃがみ、背中を擦る。
 を引き離し、死なせてしまったのに二人はワシを労わってくれた。その優しさが逆に辛かった。

 を故郷に送ってからしばらくして一通の文が届いた。のおっとうとおっかあからだった。
 村の共同墓地にを埋葬したと書かれていた文は『私たちのことは気にしなくていい。相撲取りの稽古に励んでほしい』と締められていた。
 優しさだとわかっていても、の両親からもう関わるなと突き放された気がした。

 布団に入ったままじっと棚に置いている骨壺を見つめる。ワシにはまだと離れる勇気がなかった。

>> 伍