弐
布団に寝かされた
の頬を手の甲で撫でる。
医者が言うには今夜が峠で、乗り越えたとしても目を覚ます可能性は低いらしい。
「目を覚まさなくてもええ……」
一年、十年、三十年——
が眠ったままでもワシがずっとずっとそばにいるから生きているだけでいい。
ワシは畳の上に寝転がり、静かに眠る
を見つめた。
◇ ◇ ◇
隣の家に住む同い年の
は、立つことができなくて寝たきりのおらのところへ来てはいつもにこにこ笑い、たどたどしい言葉で外の話を聞かせてくれる。
お互い何を言っているのかはあまりわかっていなかったけど楽しくて、
をずっと笑顔にするものが外には溢れていると知るとなんとしてでも外に出たいと思うようになった。
だが、おらは一歩踏み出すだけで全身に怪我を負ってまともに歩けない。
布団に寝転がり、傷が治るまで痛みに耐える日々。
それを乗り越えられたのも
が隣で気が紛れるように面白い話をしたり、寄り添って昼寝をしてくれたりとおらを一人にはしなかったからだ。
おっとうとおっかあが家にいる時は外へ出て、治療に使う薬草を取ってきてくれた。おっとうやおっかあ、
の優しさがおらを支え、心が折れなかったから歩けるようになった。
「なしておらといっしょにいたの?」
一歩も歩けなくて、怪我をして、面倒だったはずなのに
は決してそばを離れなかった。その間、つまらなかったんじゃないかと不安になり、思わず尋ねた。
は真ん丸な目を更に丸くした後、照れくさそうに笑う。
「たろきちのことがしゅきだから!」
さも当たり前のように言ってのけた
に、おらはぽかんと口を開けて何も言えなかった。
は固まったおらの頬をむにむにと指で摘んでケラケラと笑い声をあげた。
その時から
はおらの“特別”になった。
歳を重ねて力の調整ができるようになると村に馴染み、
と過ごす時間は減っていった。それでも家は隣だし、顔を合わせれば以前と変わりなく会話を交わしていた。
十四、五になると異性に対して興味がわいてくる。おらの周りでも村の中でどの女がいいか、なんて話が度々あった。
「
、いいよなぁ」
「昔はギャーギャーうるさかったけんど、今は……なぁ」
「おらはこないだ怪我した時、
に優しく手当てしてもらったずら!」
「優しなったなぁ、
」
正直、おらは気に食わなかった。
は昔から優しいのにみんな今頃になって気づき、好き放題に話している。
でれでれと鼻の下を伸ばした表情に囲まれていると胃のあたりがむかむかしてきた。少し前までは
が褒められると嬉しかったのに。
それ以上は話す気にもならなくて適当なことを言ってみんなと別れた。
「ただいま」
「おかえり~」
「
?!」
家から漂ってくる煮物の匂いはてっきりおっかあのものだと思っていたが、おっとうもおっかあもおらず、代わりに
が土間に立っていた。
驚くおらに
は呆れた時に見せる半眼になった。
「今日は村の寄り合いで私のところも両親が出てるの。この間話したでしょ」
「……忘れてたずら」
「私も家に一人だし、夜は心細いから太郎吉と食べようと思って……もうすぐで炊き上がるから待ってて」
「おう」
桶に汲まれていた水で足を洗い、板の間に上がって卓と座布団を準備する。少し硬い座布団に座り、土間にいる
のちっくい背中を見つめた。
手元をせわしなく動かす
がおっかあと被る。家には二人きりでなんだか夫婦みてぇだと思った瞬間、顔がカーッと熱くなった。
おらだっていつかはおっとうやおっかあみたいに仲の良い夫婦になりてぇし、ややだって——おらと
と、そして赤ン坊の姿を想像して今度は胸がばくばく鳴り始める。
おら、おかしくなっちまっただ……。
「太郎吉?」
「うわっ!!」
「うるっさいなぁ……顔、赤いけど熱でもあるの?」
「な、なんでもねぇ!!」
卓に煮物を置いた
に覗き込まれ、おらは慌てて首を動かして顔を逸らした。
は「変な太郎吉」と呟き、次は盆から卓へ麦飯の盛られた茶碗を置く。
「見て見て!上手に炊けたでしょ!」
ほこほこと白い湯気を上らせる麦飯をおらに見せつけて、
は得意げに笑った。
この日から
はおらにとって“もっと特別”になった。
十六になって、おらは持ち前の力を使って人を助ける日々を送っていた。
にはまだ自分の気持ちを伝えていない。惚れた贔屓目からか
は毎日きらきら可愛く見えて、つい釘付けになってしまう。それだけで済むならまだいいけれど、唇を吸いてぇなんて少しでも思ったらところかまわず魔羅が硬くなっちまって非常に困った。こんなの
に知られたら軽蔑されちまう。
ゆくゆくは
と……と思ってはいるが、まだ想いを伝える度胸がおらにはなかった。
季節は秋から冬へと移り変わる。今年もあまり豊作とは言えずに冬を迎えて不安になるも、いつになく暖かい日々が続いて過ごしやすかった。
「今年の冬は寒くないね」
「感冒にもならんで済むからええのう」
「そうだけど……何かよくないことが起こりそう」
「
は変なところで気にしぃじゃな」
「太郎吉が気にしなさすぎなの!」
暖かいといっても冬であることに変わりなく、縫い物をしていた
はかじかんできた指先を擦り合わせる。
おらはその手を握ろうと思って伸ばしかけた腕を引っ込めた。赤くなったちっくい手を温めてやりてぇと思うのに、どうにも昔のように触れることができなかった。
の不安も杞憂に終わり、春が来た。しかし一向に温かくならない。蒔いた種からやっと緑が芽吹いたと思ったらそれもすぐに枯れてしまった。
桜を見られなくて肩を落とす
を横目に、おらも何か嫌な予感をひしひしと感じていた。そしてその予感は的中する。
ひどく寒い夏の日、遠くに見える山が火を噴いた。幸い大石村が焼けることはなかったが、山から灰が降り続けてお天道様の光は届かず、ただでさえ寒い夏が更に寒くなる。作物は育たず、餓えて死ぬ者や病に倒れる者がそこかしこで見られた。
すでに息絶えた母親に泣いて縋る子どもを見て、おらは自分に何ができるか考えて考えて——江戸に行って相撲取りになり、大金を故郷のために稼ぐと決めた。
おっとうとおっかあに上京のことを話すと二人とも反対せずに背中を押してくれた。
江戸へ行くことが決まって準備をするなかで
の姿が頭に浮かぶ。おらは
を置いて江戸へ行くのか。
『
、いいよなぁ』
以前みんながにやけて話していたことを思い出す。おらがいなくなったこの村で、おら以外の男と一緒になって暮らしている
を想像して頭を掻きむしった。
嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ嫌すぎる!!
とはずっと一緒にいたんだからこれからも一緒にいたい。
そう思ったおらはすぐさま家を出て、隣の
を訪ねた。
ドンドンと板戸を叩くと外れてしまい、ガタガタとはめていたら
が隙間から顔を覗かせる。
「太郎吉……どうしたの?」
おらが板戸を外すことにはもはや慣れっこで、
は特に小言を言わない。
板戸をはめて滑りを確認し終わると、
は閉じたばかりの板戸をスーッと開けて家から出てきた。
「なに、お味噌でも切れちゃったの?」
確かに今はどの家でも夕餉を作っているが違う。おらはこちらを見上げる
を見つめて口を開いた。
「おら、相撲取りになってお金を稼いでこの村を救うずら!」
何の脈絡もない突然の宣言に
は一瞬呆けたけんど、すぐに瞳を柔らかく細めて笑った。
「太郎吉なら相撲取りになれるよ!」
「っ……」
満面の笑みを浮かべる
に胸がぎゅぅと絞めつけられる。いつもと同じ感覚なのに、いつもより強い痛みを感じた。
やっぱり江戸でも——いやこれから先ずっと
と一緒にいたい。
駄目で元々だ。意を決して
の肩をぐっと(といっても力はほとんど入れてねぇ)掴んだ。
「その、だから、おら江戸に行くずら……」
「……そう、なるよね」
「……」
「……」
情けねぇ。「一緒に来てくれ」の一言が出てこない。
ぱくぱくと口を開け閉めして言い淀むおらは間抜けに見えたことだろう。そんなおらを
は目を逸らすことなくじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「私も江戸に行く」
「……あ?」
「だから、私も江戸に行くってば」
「ほっ、本当ずら!?」
思わず肩を掴む手に力が入って
が悲鳴を上げる。慌てて手を離すと
は左手で右肩を擦った。
「元々ここはお米が育ちにくいし、今は値も高いでしょう?江戸まで出た方が仕事もあって仕送りしやすいと思ったの。ほら……繕い物とか得意だし……」
おらとは手段が違うけど、目的が同じだったことに胸がじぃんと熱くなる。
「それに、太郎吉に変な虫がついたら困るから……」
「変な虫?」
こんな山の中に住んでいるのに、
は虫が苦手になったらしい。
「安心するずら!虫はおらが叩き潰す!」
「……潰せるならぜひ潰して欲しいよ」
「?」
喜ぶと思ったのに
は呆れた表情でため息をついた。おら、何か間違ったか?
困惑して頭をぽりぽり掻いていたら
がぷっと吹き出した。
「もうさっきのことは忘れて」
「お、おう……」
「それでいつ江戸に発つの?」
「
の準備が出来次第じゃな」
「なら七日——ううん、五日後かな」
「ゆっくりでええが……」
「なに言ってんの!少しでも早く行かないと……みんなもっと餓えちゃう」
「……わかった。それなら五日後に出るずら」
「うん」
「じゃぁおらはこれで……」
「ちょっと待って」
と一緒に江戸へ行くことをおっとうとおっかあに早く伝えたくて家に帰ろうとするおらを
が呼び止める。
は家に引っ込むとすぐに大きめの器を持ってきた。中にはほこほこと湯気を立てる煮物が入っている。
「これ、よかったら食べて」
「い、いいんずら!?」
「うん、さっき作ったから味あんまり染みてないかもしれないけど……」
どこか恥ずかしそうな
が可愛くて口元がゆるゆると緩む。おらは煮物を落とさないように両手で器を抱えなおした。おらの顔面は崩れていたと思う。
家に帰って、ちょうど出来上がったばかりの汁物や麦飯が並ぶ卓に
の煮物を置いて座布団に腰を下ろす。
「この煮物、どしただ?」
「
が作ってくれて……あ!おら、
と江戸に行くずら!」
「それでだらしねぇ顔しとるんか」
「太郎吉はむかしっから
ちゃんのこと好いとったからねぇ」
「そっそんなんじゃねぇ!!」
おっとうとおっかあに笑われて、ついムキになってしまう。
のことは好きだけんど、両親に知られるのは恥ずかしかった。
「明日、
ちゃんとこに挨拶に行かねぇと」と話すおっとうは煮物を摘む。おらも小さく切られた人参を摘んで口に入れた。
言っていたとおり味は薄くて染み切っていない。けれど、口内にじゅわりと広がる出汁は優しい味わいで、おらはまただらしなく笑った。
五日後、出立の日。おらと
は荷物を背負い、家族との別れを惜しんでいた。
「太郎吉をよろしく頼むわねぇ」
「はい、任せてください」
「しっかり
ちゃんを守るんだぞ」
「わかっとる」
のおっとうとおっかあは一言も喋れないくらい泣いていて、初めておらは余計なことをしてしまったのではないかと罪悪感が芽生えた。
「もう!!お父さんもお母さんもそんなに泣かないでよ。今生の別れでもないでしょう」
「そうだけど……」
「江戸で仕事を見つけて仕送りするから。ここにいても私、無駄飯食らいになっちゃう」
「……辛くなったらいつでも帰ってくるんだぞ」
「うん」
話が一段落ついたところを見計らい、おらは
のおっとうとおっかあに頭を下げる。
「
に辛い思いはさせねぇずら!」
「太郎吉、
をよろしくなぁ」
「おう!」
の両親の涙声に、おらは頭を上げて胸を叩いた。認めてもらえたような気がして嬉しかった。
「じゃぁ、行ってきます」
泣きながら見送ってくれる両親に手を振っておらと
は村を発った。
「今日も寒いのう」
「うん」
「江戸につくまで病にかからんとええが……」
「うん」
「江戸までどのくらいかかるかのう」
「うん」
「
?」
空返事が気になって足を止め、隣の
へ目を向ける。おらにならって足を止めた
は、俯いていてどんな表情をしているのか何を考えているのかわからない。
「
」
改めて名前を呼ぶと
はゆっくり顔を上げておらを見上げる。
しかめられた眉と潤んだ瞳、水になんて触れていないのに頬は濡れていた。
は静かに泣いていた。
びっくりして固まると、
は「ごめん」と小さく零して着物の袖で顔を拭う。その仕草に、おらは
の気持ちなんて全く考えていなかったことに気づいた。
はその生涯を大石村で終えるはずだった。それをおらが江戸に行くなんて言って村を出るきっかけを作ってしまった。
「村に戻ろう」
たとえ今が辛くてもおらが相撲取りになってお金を稼げば値上がった米や野菜だって買える。
には泣くほど辛い思いをしてまで江戸に行く理由なんて——
「村には、戻らない」
「なして……」
「言ったでしょ!仕送りするため!」
「……時間かかるかもしんねぇけど、おらが相撲取りになれば——」
「少し黙って」
「!!」
はそう言うとぎゅうとおらに抱きついてきて、猫みたいにぐりぐりと額を腹筋に擦りつける。“少し黙って”と言われるまでもなく、おらはガチガチに硬直してしまって声を出せなかった。
顔が熱い。こういう時ってどうすればいいずら?!
混乱しているせいか色んな記憶が引っ張り出されて、頭がぐちゃぐちゃのごちゃごちゃになる。けどそのごちゃごちゃの中に、おらが歩けなくておっかあが泣いていた時、おっとうが優しく抱きしめていた光景を見つけた。
おらもおっとうを見習って——
「ありがと、もう大丈夫」
どうやらおっとうを見習うのが遅かったようだ。
はおらから体を離し、照れくさそうに笑った。
「江戸に行くってちゃんと決めてたの。でも実際村を出ると色々考えちゃって……ほら、あんなに泣かれるとね」
「そうじゃのう……」
「でも、もう大丈夫!!お母さんたちもすぐ慣れるだろうし、私にも……太郎吉がいるから」
「……!」
どきりと心臓が跳ねた。
にはおらがいる——ここが家の中だったら床にごろごろ転がって悶えていたにちげぇねぇ。外でよかった。
とにもかくにも
に頼りにされているとわかり、おらは気合を入れる。
「絶対に相撲取りになっから、一緒に頑張るずら!」
「うん!頑張ろうね」
顔を見合わせて笑って、おらと
は江戸へ向けて再び足を動かした。
>> 参