ティーパックマン 交際0日プロポーズ
“寝食を忘れる”という言葉がある。仕事だったり趣味だったり、なにかに夢中になればなるほど睡眠と食事がおざなりになるのは、私だけでなく全人類共通なのだ。
白いキャンバスに筆を走らせて、頭の中に浮かんでいる人物や風景を絵の具で描いているとあっという間に時が経つ。それなりに眠らないと駄目な質だから睡眠はほどほどに。でも食事は作業と化していて、片手で食べられるサンドイッチやホットドッグが多いし、飲み物なんて飲めればなんでもいい。
今日は友人から以前もらった茶葉を目分量でティーポットに入れ、ケトルで沸かしたお湯を注ぎ、少し色が出たかなってところでマグカップに淹れて完成した私流の紅茶を絵のおともにすることにした。赤い絵の具をキャンバスに伸ばしながら、がぶがぶ呷るように薄い紅茶を飲む。そんな私をアトリエの隅に置いているスツールからティーパックマンが不服そうな顔で見つめてくる。茶葉をくれた友人とは彼のことだ。私が彼の戦う姿に感銘を受けて、その雄姿を描いた絵を贈ってから交友関係が始まった。
友人になってから三年ほどになるか——時折彼に絵を贈っては、お返しに茶葉をいただくということを繰り返している。
「ティーパックマンも紅茶飲む?」
「いらん。それのどこが紅茶だ」
「えっ……紅茶の茶葉だから紅茶だよね」
「ふざけるな」
こぽこぽとティーパックマンの頭の紅茶が沸き始めた。私の淹れた紅茶がよっぽど気に入らないようだ。乱暴な口調と沸騰する彼の頭にひょいと軽く肩をすくめて筆を動かすことに集中する。怒っている人に話しかけても火に油を注いでしまいそうだもの。
無心でキャンバスを塗り潰しているとティーパックマンの呆れたようなため息が耳に入った。
「なぜ、こんな淹れ方をする?」
先ほどの苛立ちはなりを潜め、本当にただ疑問を投げかけていると思える彼の声色に手を止める。
「なぜって……うーん……絵を優先したいからかな」
「それなら白湯でいいだろう」
「う……せっかくもらった茶葉があったから……」
「贈った当人の目の前であんなぞんざいな淹れ方をするのか」
「ごめん……」
たしかにティーパックマンの言うとおり、自分が贈ったものを雑に扱われるのはイヤだよね。
私が謝るとティーパックマンは無言でこちらを見つめ、小さく首を左右に振った。
「いや、オレも自分の理想を押し付けていたな……すまない」
「そんなこと——」
「ただ、君の食事が気に入らない」
「へ!?」
ティーパックマンも謝ってきたからフォローしようとしたら非難され、素っ頓狂な声が漏れた。
ティーパックマンはスツールから立ち上がり、私が先ほど紅茶を淹れるのに使用したティーポットを手に取った。
「オレが最高のティータイムを味わわせてやるから首を洗って待っていろ」
「う、ん……」
首をもがれたことのある彼が、首に関する慣用句を使うなんて——驚いてぎこちない返事をする私を一瞥し、ティーパックマンは茶葉の入った缶も持ち、アトリエから出て行った。
一人になったアトリエで再び筆を動かす。だが、出て行ったティーパックマンのことが気にかかって手が止まってしまう。さっきまでは彼がいても放って絵を描いていたのに。そういえば、ティーパックマンがいる時のほうが捗っていた気がするなぁ。なんでだろう。
壁掛け時計へ目を向けると、あと十五分ほどで午後三時になる。ティーパックマンの出身地であるスリランカでは、一日五回くらいティータイムを楽しむ人がいるんだっけ。おそらく三時になったら彼は戻ってくるだろうから、あと十五分は絵を進めよう。
そう思ってキャンバスに目を戻すも、結局筆が乗ることはなかった。
◇ ◇ ◇
白磁のティーカップに映える赤茶色をまじまじと観察する。アトリエの中央にある丸テーブルは、いつもなら紙類やたくさんの画材を積み上げているけれど、それらは一時的に近くの棚の中に押し込められている。代わりに二客のティーカップとシュガーポット、小さめのお皿に乗せられたスコーンとクロテッドクリーム、いちごジャムがあった。
自分では用意しないであろう目の前のクリームティーセットがやけにキラキラと輝いて見える。
「本当はワディがよかったんだがな」
「わでぃ?」
向かいに腰かけたティーパックマンの口から聞き慣れない単語が飛び出して、首を傾げた。
「スリランカではよく食べる……まぁ、ドーナッツのようなスナックのことだ」
「へぇ!! 知らないことが知られて楽しいね」
「そ、そうか……!」
スリランカのことはそんなに詳しくないから、ティーパックマンと一緒にいると知識が増える。そのことを口にしたら目の前の彼は頬のあたりをうっすら赤く染め、照れくさそうな笑顔を浮かべた。
カップを持ち上げると立ち上る湯気とともにセイロンのフルーティーな香りが鼻先をかすめ、幸せな気持ちにしてくれる。本当に私が適当に淹れていた紅茶と同じ茶葉から抽出したとは思えない。
唇にカップを近づけ、ふぅふぅと表面を冷まして一口分含む。
「おいしい……!」
「そうだろう? きちんと茶葉を開かせてティーポットの中で躍らせれば——」
「……」
「すまん。紅茶のこととなるとどうにも……」
「ふふっ、ぼんやりしててごめんね。踊ってる茶葉を想像していたの」
「ガラスのティーポットなら見られるだろうな」
「見てみたいなぁ」
少しずつ赤く染まっていくお湯の中で、ゆらゆらと揺れている茶葉を見つめる私と彼の姿が頭に浮かぶ。なんだかとても贅沢な時間に思えた。
「ねぇ、今度一緒に買いに行こうよ」
「いいのか? オレはうるさいが……」
紅茶を飲んでいたティーパックマンを誘うと、申し訳なさそうな表情で見つめられる。彼が紅茶にうるさいことは、今日充分に思い知らされたのに律儀に自己申告するものだから、ぷっと吹き出してしまった。
「私が淹れるともっとうるさいだろうから、あなたが淹れてね」
「……わかった。時々、ティータイムに淹れよう」
「んー……」
「どうした?」
確かティーパックマンは私の食事が気に入らなかったはず。今回のティータイムだって紅茶の美味しさとかゆっくり食事をすることの大切さとかを伝えたかったんだと思う。
そりゃ、ちゃんとした手順で淹れた紅茶の美味しさはわかったけれど——ゆっくりしっかり食事をするかと言われたら無理だ。できるわけがない。自身とは生まれてからの付き合いなのだ。自分のことは自分が熟知しきっている。
それに……私は向かいのティーパックマンの瞳を見つめ返す。うん、彼がそばにいてくれたらゆっくり食事もできるし、筆も進む。
「午後のお茶だけじゃなくて、毎食がいいなぁ」
こんなに美味しい紅茶が飲めるのなら、いつもの食事も作業ではなくなるはずだ。
他意はなく、軽い気持ちでそう告げたら、モデルチェンジでもしたかのように彼の真っ白な頭がカーッと真っ赤に染まっていく。それに比例して体温も上昇しているようで、ぐつぐつと彼の頭部の紅茶が煮えたぎり、ぷつぷつと気泡が弾けて周囲に紅い滴を撒き散らした。
その様子に、ようやく求婚めいた言葉を口にしていたことに気づき、私もつられて頬を熱くするのだった。
公開日:2025.03.13