ミスターカーメン Drop

 天井から滴り落ちた滴が一粒、水面を揺らす。
 ライラは目の前で生まれた波紋をぼんやりと眺め、気怠い身体を背後のカーメンに預ける。背中に感じる体温に先ほどまで彼と体を重ねていたことをふと思い出し、ライラの口からは恍惚を含んだ吐息が漏れた。
 その吐息を合図に、背後から抱きしめるように体へ回された腕。彼の腕や手を見ているとベッドの中で体のラインを撫でられたことや胸を揉みしだかれたことがフラッシュバックする。
 ライラは唇を噛むと愛撫もされていないのに疼き出した下腹部を鎮めるため、カーメンの腕から目を逸らした。
 ぬるま湯に浸りながら明日はなにを食べようかどこへ出かけようかなど、情事のことを考えないために取り留めのない思考を繰り返す。それが功を成し、下腹部の疼きが治まってきたかと思えば、左肩にちくりと比較的軽い痛みが走ってライラはカーメンから体を離した。

「……今、なにをしたの?」
「なにって痕をつけただけだ」

 振り返って尋ねれば愉しそうに口角を上げて答えるカーメンが目に入る。ライラは形のよい眉をしかめるとカーメンを睨みつけ、口を開いた。

「痕はつけないでって言ってるでしょ?」
「別によいだろう」
「やめてったら!」

 拒否の意思を伝えてもなお、肩口に唇を寄せるカーメンからライラは身体を離す。その余りに必死なライラの様子にカーメンは気を削がれたのか、少しだけ肩を竦めた。

「分かった」
「……」

 カーメンはそう言い捨てると立ち上がり、浴室から出て行った。ライラは一人になった浴槽の中で膝を抱え、磨り硝子の向こうでゆらゆらと動く影を見つめる。戻ってきてくれることを期待したのだが、カーメンは服を着終えたらしくドレッシングルームから姿を消す。
 ライラは立てていた膝に顔を埋め、カーメンが口付けた左肩にそっと触れる。嫌ではなかった。むしろカーメンから愛されているように思えて舞い上がった。しかし、ライラには所謂“夫”と呼ばれるものがいる。既婚の彼女は他の男の印などその体に残してはいけない。
 ライラは湯船から出るとカーメンのいなくなったドレッシングルームに向かった。



「もう戻るのだろう?」
「えぇ」

 衣服を纏い、カーメンと過ごした部屋へ戻れば即座に尋ねられる。彼とは体の関係でしかない。ライラは短く返事をするとドアに向かった。
 足を進める度にカーメンから一歩ずつ離れていく。「行くな」と言われることを願って——今日も部屋を出た。

◇ ◇ ◇

 カーメンとの密会からおよそ一週間経ち、ライラはベッドの中でため息をつく。
 今日は夫がこの世に生を受けた日。もう微塵も愛など抱いていないが形式上は夫婦であるため上辺だけでも、と夫の帰りを待ったが帰ってこない。恐らくほかの女のところにいるのだろう。
 ライラは薄暗い部屋のどこを見るわけでもなく、ただぼんやりとカーメンのことを考えていた。
 夫の不倫が発覚してから半ば自棄になり、当てつけのようにカーメンに自ら抱かれた。初めは酷く気持ちが悪かったことを覚えている。好きでもない男に抱かれるなんて、と自己嫌悪にも陥った。それでもカーメンのもとへ通おうと思ったのは、たった一晩しか寝床を共にしていない彼が覚えていてくれたから。
 夫の不倫が長くなり、見向きもされなくなったころ、一人きりの家にいるのもはばかられてふらふらと魔界を歩いていたライラの名をカーメンが呼んだ。夜伽の誘いだった。愛情の欠片も感じられない、性欲を満たすためだけと分かっていた。それでも名前を呼ばれたことが、覚えていてくれたことが嬉しくて、その日以降自ら進んでカーメンのもとへ通うようになった。
 行為の最中にカーメンは時折眉根を寄せてぐっとこらえているような表情を見せたり、達した際には低く唸って痛くなるほど抱きしめてきたりといつもの余裕はなりを潜める。ライラは彼をそのようにさせている自身にほんの僅かだが失いかけていた女としての自信を取り戻すことができた。
 夫はライラの名前を呼ばないが、カーメンは呼んでくれる。夫から求められないが、カーメンは求めてくれる。戯れとはいえカーメンはライラ の心身ともにぽかりと開いていた穴を埋めてくれた。こんな火遊びにのめり込むわけがないと思っていたのに、気がついた時にはすでに手遅れで深みにどっぷりとはまってしまっている。

(逢いたい、な…)

 一人寝が寂しくてカーメンに逢いたくて仕方がない。一度そう思うと歯止めが利かず、ライラはベッドから降りて手早く身支度を整えると自宅を出た。



 逸る気持ちを抑え、通い慣れた道を歩き続け、カーメンのいる居住区へたどり着く。幸い誰にも会うことなく来られたことにライラはほっと息を吐いた。
 王族よろしく豪奢な構えの宮殿じみた邸宅は何度訪ねても落ち着かない。静かな深夜の回廊に自分の心音が響きそうで、ライラは胸を押さえた。
 足音を立てないように慎重に歩を進め、カーメンの私室へたどり着く。
 自分が焦がれていたことをカーメンに知られてはいけない。ライラは一度深呼吸をして自身を落ち着かせるとドアを叩くために拳を軽く上げて、そのまま下ろした。

(どうして、気づかなかったんだろう……)

 部屋の中から女の楽しそうな笑い声が聞こえて、ライラはドアに触れることなく来た道を引き返す。
 悪魔超人のなかでそれなりの地位にいて独り身、加えて容姿端麗なカーメンをほかの女が放っておくわけがない。わざわざ他人の女に手を出さなくてもカーメンは事足りているのだ。
 重い足を動かして自宅に戻り、相変わらず誰もいない寝室のベッドに腰かける。ひとりぼっちの暗い部屋で、先ほど聞いた女の声が耳にこびりついて離れない。胸が締めつけられるように苦しい。こんにも彼のことが好きなのだと自覚させられる。
 わざわざ着替えたスカートの裾を強く握る両の拳を零れ落ちた涙が濡らしていく。 しんと静かな部屋に、ライラの嗚咽だけが響いていた。





偶然ですが滴で始まり雫で終わったので『Drop』にしました。
あと2話くらい続くのかな。カーメン視点も書きたいですね~。
人妻・未亡人・義理の兄妹とかとても好き。
2024.09.13