ジェロニモ I love you.を教えて

※夢主は耳が聞こえない設定です。
セリフが読みにくいかもしれませんが、聴覚障害のある方を侮辱する意図はありません。





 ミートくんと知り合って一週間、あの噂のアイドル超人たちとも芋づる式に知り合いになったが、マティアは一人で過ごすことが多かった。
 三歳で耳が聞こえなったマティアは会話がスムーズにできない。声を出して話そうとしても発音が合っていないために相手が聞き取れないことが多く、筆談しようにも彼らが戸惑っているようなそんな気がしてしまう。同じ超人同士、挨拶はしてくれるので嫌われてはいないが、必要最低限の接触しかしたくないように思えた。
 今までもそうだった。もう慣れている。
 自分自身に何度もそう言い聞かせ、痛む胸に気づかないふりをする。

 ミートくんと二人で洗濯物を干し、休憩がてらキン肉ハウスの外壁にもたれかかって一冊の本を捲る。
 本は自分が経験していないことを教えてくれる。例えば、恋愛とか。
 男女が知り合って親密になっていき、そして想いを伝えて結ばれる。そんな自分の身には起こらないであろう恋愛話を最近よく読むようになった。登場人物の想いはよくわからないけれど、主人公が相手と無事に恋人になったらほっとしてしまう。
 この物語もなかなかに面白くて夢中になって読んでいると、不意に影がかかってマティアは顔を上げた。

「こんにちは。なにを読んでいるズラ?」
「ぁ……こんいちあ」

 そこに立っていたのはジェロニモで、あまり彼と話したことのないマティアはおどおどしながら挨拶をする。
 そんな彼女を気にした様子もなく、ジェロニモは隣に座るとマティアの膝に置かれた本を覗き込んだ。

「これアメリカの本か? そういえばマティアもアメリカ出身だったなぁ。字がちっせぇ~……面白ぇの?」
「とえも」
「……オラの言っていることわかるかぁ?」
「あぃ。くちひゆのうおきで」
「よかった」
「……」

 音は全く聞こえないけれど、ジェロニモは“よかった”と言って穏やかな笑顔を見せた。
 それを嬉しく思うと同時に、これから先会話をすれば面倒くさいと思われてしまうかもしれないと不安が過ぎる。
 マティアはジェロニモを見つめて、おずおずと口を開いた。

「ジェオニオ、わらひとおしゃえり、えんどううさくあい?」
「……ごめん、もう一回言って欲しいズラ」
「……」

 やっぱり通じなかった。
 マティアは肩を落とし、いつも持ち歩いているカバンから筆談用のノートと鉛筆を取り出し、ノートをめくって先ほどの質問を書こうとした。
 しかし、その手をジェロニモの大きな手が覆ってきて筆談を止められてしまう。

マティア、ちゃんと聞くからもう一度言うだ」
「……ジェオニオ、は」
「うん」
「わらひとしゃえうの」
「うん」
「えんどうさくあい?」
「……面倒だったら話しかけてねぇよぉ!」

 そんな寂しいこと言っちゃダメだ、とジェロニモは苦笑を浮かべた。
 今までそのようなことを言ってくれた人はいただろうか。マティアは目を丸くして彼を見つめていたが、徐々に視界は霞んでぼやけていく。涙腺が緩み、溜まりに溜まった涙が下まぶたの縁を乗り越え、開いていた本に染みを作った。

「ごぇっ、なしゃ……う、うえしぅて……」
マティア
「っ……」
「別に謝る必要はないズラ」

 ジェロニモは満足そうな笑顔を見せ、妹にしていたように無骨な手でマティアの頬を拭った。

 その日を境に二人は毎日のように会話を交わすようになった。スムーズに喋ることはできないが、ジェロニモは辛抱強く耳を傾けてきちんと返事をしてくれる。そんな日々が続き、次第にマティアの笑顔は増え、優しい彼に友情とは異なる淡い気持ちを抱くようになった。
 たくさんの恋愛小説を読んできたから自分のこの想いがどんなものか気がついている。しかし、マティアは初めて生まれた気持ちを決して表に出さないよう大切に、ひっそりと心の奥底にしまった。
 ジェロニモと結ばれるとは微塵も思っていない。自分の隣でにこにこと笑う彼が、大切な人と幸せになってくれればそれでいい——そんな初恋だった。

◇ ◇ ◇

 左の脇腹が脈打つように痛む。
 辛うじて身を滑り込ませた路地裏で壁に背中をつけて座り込み、マティアは赤く染まっていく服を見つめた。

 何かと多忙なミートくんを手伝うためにキン肉ハウスへ向かう途中、いつもショートカットで突っ切っている公園へ入ろうとした際にフードを目深に被った人間の青年がぶつかってきた。曲がりなりにも超人であるマティアに人間の方から接触してくるなど珍しく、驚いて彼を見つめたら鋭い目つきで睨まれてしまった。

『超人なんか消えちまえ……』

 マティアが確認できたのは彼の小さく動く口元と、右手に携えている血液が付着した抜き身のナイフだった。切っ先からぽたぽたと滴る数滴の血液は、規則正しく敷き詰められた歩道のタイルを赤く染めていく。そこでやっとマティアは彼に刺されたのだと気が付いた。
 傷を認識した途端、痛みが襲ってきて全身にぶわっと脂汗が滲む。

(なんで? どうして? 私は何もしていないのに……)

 刃傷沙汰が発覚する前に人間の青年は駆け足で公園内に逃げ込んだ。親子連れや恋人たちで賑わう公園なら身を隠しながら移動できると思ったのだろう。
残されたマティアは右手で傷を押さえ、公園には入らずに覚束ない足取りで近くの路地裏に身を隠したのだった。

傷口から手を離して目を向けると、手のひらはべったりと真っ赤に染まっている。
 血液をしげしげと眺め、さっきの青年はなにかしらの出来事で超人に恨みがあり、やり場のない怒りをぶつけてきたのだろうとむりやり自身を納得させた。
 刺された箇所が悪かったのか腹部から流れる血液は止まる気配を見せない。少し気分が悪くなり、眉をひそめて目を瞑っていると徐々に眠気が強くなってきた。

(このまま、死んじゃうのかな……)

 傷口を再び押さえて痛みで眠気をごまかそうとしたのだが、あまり痛みを感じない。浅い呼吸を繰り返し、ふと両親のことを思い出した。

 元々マティアの一族は超人強度の高い者はほぼ生まれてこない。弱小ながらそれでも途絶えずに今まで生き残ってこられたのは、遥か遠くの音を拾える“耳”があったからだ。外敵の行動をいち早く察知し、罠を仕掛けて待ち構えたり、逃げに徹したりすることで種を存続させてきたのである。
現代ではそのような血生臭い戦いはなくなったが、一族はそのことを誇りとして代々語り継いできた。その誇りをわずか三歳で失くしたマティアに、両親は失望の色を隠せなかった。
 身を護る武器がない弱い超人。両親が彼女を見捨てることはなかったものの、弟が生まれてからはぞんざいな扱いを受けていたと断言できる。
 一族からも白い目で見られ、マティアの居場所はどこにもなかった。それでも唯一の味方がいた。それが“本”だ。
 本は親に代わって様々なことを教えてくれる。色や草花、物の名前。世の中にはたくさんの国があって、様々な言語が使われ、手で会話ができるということも。
 独りの時間が長く、その間に莫大な知識を得ることができた。しかし、それでも独りでは知ることができないものがあった。

(ジェロニモ……)

 誰かを大切に想い、愛するという気持ちは本から教わることができず、ジェロニモから教わった。

 ジェロニモに会えない日のちょっとがっかりした寂しい気持ち。
 ジェロニモからもらった甘酸っぱいキャンディの包み紙を大切に取っておきたい気持ち。
 ジェロニモが彼のファンを名乗る女の子と話しているところを見てムッとした気持ち。
 ジェロニモと目が合い、笑顔を向けられた時の心臓が小さく跳ねて、ふわふわとした気持ち。

 恋をするとこんなにも目まぐるしく感情が変わるのだと知った。初めてのヤキモチで悲しくて辛い時もあったけれど、その嫉妬の気持ちですらジェロニモと出会わなければ知り得なかった。

 マティアは震える左手で肩掛け鞄の中から一冊の本を取り出す。ジェロニモに貸すはずだった本。字が大きめで読みやすく、わくわくするからジェロニモは気に入るかもしれないと彼のことを想って自宅の本棚から選んだ。
 今日はキン肉ハウスへ向かう途中でジェロニモと待ち合わせをしていた。ジェロニモはすでに待ち合わせ場所に到着しているだろうか。

(ジェロニモに、会いたい)

 日本に来て、ジェロニモが話しかけてくれて、初めて恋を知って、好きな人と交わす拙い会話がとても愛しくて——もっと色々な話がしたかった。
 本音を言えばジェロニモと手を繋ぎたかったし、ハグもその先のキスもしたかった。
 物語のようなドラマティックなものではないかもしれないけれど、登場人物たちの気持ちがわかるようになった今、自分なりの恋愛をしたかった。
 もうジェロニモには会えないかもしれない。そう思うと胸が痛んで、苦しくて、マティアは自分では聞くことのできない嗚咽を上げて子どものように泣きじゃくった。

◇ ◇ ◇

 マティアとの待ち合わせ場所で、ジェロニモは所在なさげにうろうろと歩き回る。約束の時間を過ぎても彼女が来ないのだ。
 時間が過ぎたといってもほんの三分程度だが、いつも待ち合わせをすると二人揃って五分前には来ていたから、どうにも違和感が拭えない。

(寝坊でもしたかぁ?)

 慌ててこちらへ向かってきているマティアの姿を想像し、ジェロニモの口角が小さく上がる。
 最近の彼女は、様々な感情を顔に表すようになった。初めて出会った日、ミートくんから紹介されたマティアはおどおどとしていて、瞳には怯えの色が滲んでいたことを覚えている。耳が聞こえなくて日本に来たばかりで知り合いもいないと伝わるように注意深く話す彼女に、みんな何と声をかければよいかわからなかった。そんななか、ミートくんが「僕でよければ日本について教えます」と手を挙げた。なんでも買い出し中に買い物袋が破けて立ち往生していたところをマティアに助けてもらったお礼らしい。結局、マティアはお返しが釣り合わないからと忙しいミートくんを手伝い続けている。
 そして、ジェロニモと話すようになってからマティアの笑顔は日増しに増えていった。会話中はいつもにこにこしていて、時折、ちょっと拗ねたようにムッとしていたり、怒ったふりをしたり、おどけたような顔だって浮かべるようになった。それにマティアはどんな些細なことでも——たとえばキン肉マンの替えのパンツを干すだとか、みんなが集まった時には家具を外に運ぶだとか自分にできることを一所懸命に取り組んでいて、そんな彼女に好ましい気持ちを抱いた。
 その淡い気持ちがはっきりと輪郭を現したのは、歳の近いブロッケンJr.が「あいつ、笑顔が増えたよなぁ。そろそろ話しかけても大丈夫かな?」と口にしたことがきっかけだった。ブロッケンJr.に下心があるわけではないとわかっている。彼はほかのみんなと同じく、マティアから怯えられなくなるまで距離を取って見守っていただけだ。しかし、それはジェロニモに、ほんのわずかな苛立ちと焦り、マティアの隣を誰にも譲りたくない独占欲を芽生えさせた。
 マティアはジェロニモとだけ話しているわけではない。ミートくんとジェロニモを除く超人とはまだ挨拶程度だが、テリーマンの計らいで知り合った同性のナツコとも親しい。でもそこにブロッケンJr.が加わったら? ブロッケンJr.だけではなく、キン肉マンやテリーマン、ラーメンマン、ロビンマスク、ウォーズマン、ウルフマン……みんな強くて優しく、ジェロニモは尊敬と憧れを抱いている。だからこそ、マティアが自分以外の誰かに惹かれてしまったらと思うと気が気ではないのだ。

(オラじゃかないっこねぇかもしれねぇけど……もう少し独り占めしたいだよ)

 マティアのことを考えていると落ちつかず、数分でも早く会いたくなってきた。
 ジェロニモは気持ちを切り替えて、いつも彼女がやってくる方向へ足を進める。こちらへ向かってきているのなら必ず会えるはずだ。

(今日はなに話そうかなぁ。色んなこと知ってるから話してて楽しいズラ)

 マティアとは出身が同じだし、お互いの故郷の話なんてどうかなと思いながら足を進めていると、前方から走ってきた男と肩がぶつかる。
 ジェロニモのがっしりとした肩に弾き飛ばされた男は尻もちをつき、それと同時に金属性のものを落としたのか、キィンと耳に刺さる不快な音が響いた。

「だ、だいじょう……」

 走っていたため反動が大きく、呻いてなかなか立ち上がらない男に声を掛けようとしてジェロニモはハッとする。男の傍らに血に塗れたナイフが転がっていたからだ。

「おめぇ一体なにをしただ!」
「ぅぐっ……」

 凶行に及んだと思われる男の体をジェロニモは押さえこむ。しかし、それは失敗だった。軽く押さえたつもりが思っていたよりも強い力で押さえてしまったようで、男は短く呻くとそのままガクリと意識を失った。

「や、やっちまった……!」

 これでは男が誰を刺したのか聞き出すことができない。むりやり叩き起こそうか——胸ぐらを掴んで持ち上げるもさきほどの失敗が頭をよぎり、殺してしまいそうで思いとどまる。それに男を起こしたとしてすんなり白状するとも思えない。
 ジェロニモは男を地面に寝かせると傍らに落ちているナイフへ目を向けた。今日に限って姿を見せないマティアとこのナイフが関係しているのではないかと、そんな嫌な予感がする。

(テリーマン先輩がいたら靴紐で教えてくれるのに……!)

 ジェロニモは頭のバンダナを外し、男をうつぶせにして背中で両手を縛ると立ち上がって駆けだした。
 テリーマンがいない今、マティアの安否は不明だ。それでも大丈夫だろうと決めつけた結果、彼女を喪うことだけは避けたかった。取り越し苦労ならそれでいい。
 ジェロニモはマティアのことを想い、がむしゃらに走った。この公園は比較的大きく、出入り口は東西南北にあり、そこへ至るルートも複数ある。しかし、ジェロニモは迷わずに真っすぐに進んだ。
 以前に一度だけ会話が盛り上がってしまい、夕暮れ時にマティアを家まで送って帰ったことがあった。彼女の性格からあの日だけでなく、いつも同じルートを通っていたはずだ。だから自分が行く先に必ずマティアがいるとジェロニモは確信していた。

「……なんでいねぇズラ」

 たどり着いた公園の出入り口でジェロニモは茫然とする。マティアがどこにもいない。男に刺されても刺されていなくても会えるはずだったのに。
 きょろきょろと辺りを見回し、出入り口付近のベンチで長いことおしゃべりをしていそうな主婦二人にマティアのことを尋ねたが、口を揃えて知らないと返される。更には刃傷沙汰があったことも知らないのかやけに落ち着いていた。
 ナイフに付着していた血液は乾いていなかったため、男が犯行に及んでから時間はそう経っていない。もし人間が刺されたのならば、その場から動けずに騒ぎになるはずだ。仮に刺されて動けたとしても周りに助けを求めるだろう。しかし、マティアは助けを求めるだろうか。
 上手く発音ができなくて、さらに流血している超人に話しかけられたら人間は——ジェロニモは、みんな彼女を助けてくれると思っている。ジェロニモ自身が超人にあこがれていた元人間だということもあるが、人間はおおむね超人に対して友好的だからだ。
 リングで戦う超人へ贈られる声援をジェロニモは受けたことがあるし、リング外で耳にしたこともある。だが、マティアはおそらくそれを知らない。くわえてジェロニモが話しかけた時にすぐに筆談用のノートを取り出そうとしていたから、声での対話を諦めている節がある。
 誰にも助けを求めることができず、公園で騒ぎにもなっていないのなら、そもそも公園の中にマティアがいない可能性が高い。
 ジェロニモは公園を出てすぐに辺りを見回し、建物と建物の間の薄暗い隙間を見つめた。あんなところにいてほしくない。あんな、人目を憚って、死を待つだけのようなところには——
 公園の出入り口から伸びる横断歩道を渡り、ジェロニモはマティアがいるかもしれない路地裏に近づく。

「……なんで」

 こんなところにいてほしくなかったのに、近づくにつれて女性のすすり泣く声が聞こえ、自然と唇を嚙みしめる。駆け込むように路地裏に入ると、室外機の影で体を丸めているマティアを見つけ、ジェロニモは彼女の前にしゃがみこんだ。
 その気配に気づいたのか、彼女は左手で目元を擦って瞼を開けた。

「ジェオニオ……」

 目の前の人物がジェロニモだとマティアが認識するまでの間、涙でびしょびしょの顔には恐怖の感情が表れていて、それを目にしたジェロニモの胸はぐぐーっと圧迫されたように苦しくなった。
 危害を加えられても周りに助けを求めず、独りで隠れているマティア。彼女が育ってきた環境が、周りにいた人々が彼女をこのようにしたのだと——そう思うと悲しさや腹立たしさ、知り合うことが遅かった苛立ちやらが込み上げ、涙となってジェロニモの頬を流れ落ちた。

「ごめんえ……まちあわしぇ、いけあくて……」
「なっ、なに言ってる、ズラ! オラは……ぜんぜんっ……びょっ病院に、行くだよ!」

 ジェロニモは待ち合わせに行けなかったことを謝るマティアに𠮟責し、手の甲で自身の涙をぐいっと拭う。そして変なところは触らないように注意しながら彼女の膝に左腕を差し込み、背中には右腕を当てて横抱きの形で持ち上げた。ジェロニモの剥き出しの腹に血液で濡れたシャツがピタピタと張りつく。室外機で光が遮られてわかりづらかったが、マティアが座っていた地面にいびつな形の小さな水溜まりができていて、多くはないが少ないとも言えない出血量にジェロニモは眉を顰めた。

「大丈夫、大丈夫だかんな」
「…………」

 腕の中で目を瞑るマティアにジェロニモの声は届かない。そうわかっていてもジェロニモは話しかけずにはいられなかったのだ。
 路地裏を出て、光の下で見るマティアの顔は青白かった。ジェロニモは彼女を揺らさないように着地に注意を払って駆け出す。

「ジェオニオ……」
「喋っちゃダメだ! すぐ病院に着くから……!」
「あぃ……えう、ぉー……うぃ……いー……ゆぅ……」
「……マティア
「あ、い……ぇう……おぉ、うい……いぃ、ゆー……」
「っ……」

 目を瞑ったままマティアはうわごとのように何度も同じフレーズを繰り返す。かなり体力を消耗していて話すのも辛いはずなのに、マティアは懸命にジェロニモへ訴え続けた。

「オラが、オラが教えるからっ……」

 その言葉の発音を知らないマティアにジェロニモの胸は詰まり、それ以上なにも言えなくなる。
 ジェロニモは視界を涙で霞ませながら、近くの超人病院へと走り続けた。

◇ ◇ ◇

 目を覚ますと蛍光灯の明かりと真っ白い天井が見える。自宅とは違う枕に、パリッとしたシーツが落ち着かなくてもぞもぞと身じろぎをしていると、擦れる音に気付いたのか同室でほかの患者を診ていた看護師がベッド周りのカーテンから顔を覗かせた。

『どこか痛いところはありますか? この手話、わかりますか?』

 看護師の女性はマティアの耳が聞こえないことを知っているようで、大きく口を開けて手話で尋ねてくる。

(確か、日本の手話は……)

 国によって手話は異なるが、多言語を話す人がいるようにマティアもある程度ならほかの国の手話を覚えていた。
 寝たきりで話すのも気が引けて、ゆっくり半身を起こす。看護師は慌てて止めようとしたが、男から刺された傷はまったく痛まなかった。

『日本の手話は少しだけわかります。傷はまったく痛みません』
『よかったです。マティアさんはほかの超人と比べても傷の治りが早いみたいですね。ここに来て一日経ちましたが、今朝、傷口は完全に塞がっていました』

 看護師にそう言われ、おそるおそる病衣を捲ると、確かに左の脇腹にはみみずばれのようなうっすらと赤い傷痕があった。指でつついたり、傷痕の上下の皮膚をぐっと引っ張ったりしても開くことはないし、痛みもない。
 自分がこんな体質だなんて知らなかった。もしかしたら一族特有のもので、逃げに徹し、大きな傷を負わずに存続してきたがゆえに回復力については誰も知らず、口伝されなかったのかもしれない。

『ジェロニモさんが運んできた時には、ほぼ塞がっていましたが、出血が激しかったので輸血をしました』
「ジェオニオ……」
『ジェロニモさんは、中庭に行くと言っていました。昨日からずっと寝ずにつきっきりだったので、もしかしたら寝ているかもしれません』
『そうだったんですね。ありがとうございます』

 ジェロニモがつきっきりだった——それを知り、マティアの頬がぽっと赤くなる。看護師は血色のよくなったマティアに顔をほころばせ、ベッドをまたぐようにして設置しているテーブルにタオルや櫛などのアメニティセットを置いた。

『先生が歩けるようなら歩いてよいと……念のため、杖を使ってください』
『わかりました。助かります』

 超人で、かつ回復の早い体でよかった。人間だったらしばらくはベッドの上で過ごすことになっただろう。マティアは杖を支えに立ち上がり、病室の洗面台で身支度を整えると看護師に頭を下げてジェロニモのいる中庭へ向かう。
 早くジェロニモに会いたい気持ちが先走り、使い慣れない杖を右手で引きずるようにして廊下を歩く。
 気を失う前にあんなことを言ってしまったから顔を合わせづらいが、彼は何も言わなくても駆けつけて命を助けてくれた。そのことに関しては自らの口で礼を伝えなければならない。
 病室は二階にあったためエレベーターのボタンを押して到着を待つが、その時間すら惜しく感じて階段へ向かう。
ゆっくりゆっくり一段ずつおりて一階に着くと、時を同じくして一階に到着したエレベーターから人が出てきた。

(待ってた方がよかったかな……)

 ほんの少しの待ち時間ですら我慢できないほどジェロニモのことを考えている自分に恥ずかしくなり、誤魔化すように寝ぐせで跳ねている髪の毛を撫でつけた。
 ぎこちなく杖を突いて廊下を歩き、中庭へ続くガラス戸の前に立つ。

(ジェロニモはどこにいるんだろう)

 中庭はほかの入院患者が散歩していたり、お見舞いに来た友人や家族とベンチでおしゃべりをしたりとそれぞれが思い思いに過ごしている。その中にベンチで一人座っているジェロニモを見つけ、マティアはその横顔に釘付けになった。
 やっぱり、彼のことが好きだ。胸が苦しくて、息が詰まって、自然と涙が滲んでくる。
 マティアはごしごしと目を擦り、意を決して中庭へ繋がる扉を開けた。
 一歩一歩、杖を突きながらジェロニモに近づく。考え事に耽っているのか一人でぼんやりと宙を見つめていているジェロニモは、マティアの接近に気づいていない。いつもなら気がついて彼の方から先に声をかけてくれるのに。
 マティアはなけなしの勇気を振り絞って彼の名前を呼んだ。

「ジェオニオ……」
「……! マティア!」

 ベンチから立ち上がったジェロニモはマティアに駆け寄り、上から下から前から後ろから彼女を物色する。

「立って大丈夫か!?」
「うん、らいじょうびゅ」
「嘘ついちゃダメだ! 杖突いてるだ! 早くあそこに座るズラ!」
「ジェッ、ジェオニオ!」

 ジェロニモはマティアの背中に右腕を回し、支えるように肩を抱いて歩く。ペースはマティアに合わせていて、そんな些細な優しさを向けられる自分が、彼にとって特別な女の子なんじゃないかと勘違いしてしまう。
 ジェロニモと触れ合っている箇所にばかり意識が集中し、ギクシャクとしてうまく歩けない。それがジェロニモに余計な心配をさせたようで、支えているだけだったのに強く抱き寄せられることとなった。拳ひとつ分くらいは開いていた隙間がなくなり、ジェロニモと密着している左半身の感覚が麻痺したかのようにわからない。こんなにも意識しているのは自分だけなのだろうか。
 そう思ってちらりと黒目を動かして頭上のジェロニモをうかがうも、彼はけろっとした顔で歩いている。

(ジェロニモとは、友達……友達……)

 こちらが勝手に片想いをしているだけだから、とマティアは何度も自分に言い聞かせて深呼吸を繰り返す。ジェロニモが助けに来てくれた時に自身の気持ちを吐露してしまったが、発音がわからなかったために伝わっていなかったに違いない。それならそうで気が楽になり、マティアはジェロニモに導かれるがままベンチに腰を下ろした。

「ジェオニオ、あの、ありあとう。たしゅけてくえて」

 隣に座ったジェロニモに助けてもらった礼を告げると、ジェロニモは無言で当たり前だとばかりに優しく笑う。あのまま路地裏で力尽きていたらこの笑顔に再会はできなかった。本当に彼が助けてくれてよかった。
 ベンチに座った二人の間には貸すつもりだった一冊の本が置かれていて、ジェロニモが途中まで読んでいたのか栞代わりの紙が挟まっている。頭を捻りながら選んだ本を読んでくれたことが嬉しい。マティアが笑いかければ、途端にジェロニモはどこか落ち着きなくそわそわとし始める。

「どうちたの?」
「あ、いや……そ、そういえば、マティアが危なかった時、テリーマン先輩の靴紐が切れたみたいで……オラも見たけど、完全には切れてなかっただよ!」
「しょうなんら……しょえって、わらひも、なかまらってこと……かな……」
マティアは、最初から仲間ズラ」
「へへ……」
「それでマティアを刺した男だけど、オラが気絶させちまって……」
「ジャオニオは、ふちゃりをかかえてここにきちゃの?」
「それが……マティアのこと心配だったから、男を縛って放置しただ。マティアのことを心配したテリーマン先輩が公園に駆けつけて、警察に引き渡してくれただよ」
「しょっか……」
「…………」

 マティアは病衣の上から左の脇腹を撫でる。あの人間の男性はどうなったんだろう。超人殺人を謀ったにしても未遂に終わったのだからそこまで重い罰則が与えられないと良いのだけれど、とそれ以上考えないようにした。
 なにか話題がないかな、と中庭で過ごしているほかの患者を観察しながらマティアが考えていると、視界の端でジェロニモが動いた。ジェロニモは少し迷っているようでガシガシと頭を掻くと、小さく「よし!」と呟いて気合いを入れ、ベンチに置いていた本を手に取る。彼の本題はこちらだったのかもしれない。ジェロニモはマティアの本を手に取り、紙が挟まれているページを開いて文章を指差す。

 I love you.

 物語の中で主人公の男が最愛の女性に愛を囁くシーンで、それを見たマティアの頬は赤く染まる。
 言われた覚えのない愛情を伝える言葉。伝わっていないと思ったのに——いや、マティアとずっと話していたジェロニモだからこそ伝わったのかもしれない。
 恥ずかしくていたたまれなくなり、俯いて膝の上で拳を握る。その拳をジェロニモの手が包み込んだ。

マティアは、これがわからないんだよな?」
「……あぃ」
「これは“love”って読むだ」

 ジェロニモはマティアの手を引いて指先を自分の唇に当てさせ、発音を教えようと何度も“love”と呟く。まさか好きな人の唇にこんな形で触れることになるとは思ってもいなかったマティアは、顔をますます赤に染めて緊張から指先を震わせた。
 それでも彼は純粋に教えようとしているのだから集中しなければならない。マティアは羞恥心を噛み殺し、指先でジェロニモの音を読み取る。

「ら、ぅ……ら、ぶ……」
「そうそう!」
「らぶ……?」
「合ってるズラ。それで続けて読むと“I love you.”」

 マティアはジェロニモに指を当てたまま、オウムのように繰り返した。

「あい、しぅ……あぃ……しちぇう……あい、ち、てう」
「うん……オラも愛してる」
「?」
マティア、オラも愛してる」

 名前を呼ばれ、ジェロニモからの突然の告白にマティアは目を丸くする。もしかしたら唇の動きを読み間違えたのかもしれない。
 軽く混乱しているマティアに笑顔を向け、ジェロニモは唇に触れていた彼女の手を両手で包み込む。

マティアを愛してるだ」
「うしょ、ら」
「嘘じゃねぇズラ」
「らっえ、わらし……ひひきこえあぃ……」
「最初から知ってる。オラ、マティアのことが大切だから……逢いたくて仕方がなかったから、駆けつけただ」
「っ……」
「今までマティアが言われてこなかったことをこれからはオラが言いたいから、その、……オ、オラの隣にいて欲しい」

 ジェロニモの真っ直ぐな想いに胸がいっぱいになって言葉が出てこない。
 いつもだ。いつもジェロニモはマティアが誰からも言われたことのない言葉を伝えてくれる。
 対話を厭わないジェロニモだからマティアもきちんと声に出して改めて気持ちを伝えたいのに、涙と嗚咽が邪魔をして声が出せない。待たせてしまって撤回されるのも怖くて、マティアはしゃっくりで体を揺らしながら何度も大きく頷くしかなかった。
 自然と下を向いてしまうマティアの頬にジェロニモの手が触れ、優しく顔を上げさせられる。

「下向いてちゃ会話できねぇ」
「でお……なみらが、とまらあくて……」
「オラが拭くから、あぁまた……顔上げるだよ」
「うっ、ん……」

 ジェロニモの指先が頬を撫でるにつれ、触れられた箇所が熱を持ったかのように熱くなる。そんなマティアに気づき、ジェロニモも首から上を赤く染めた。

「そっ、そのっ、オラ……オラっ……」
「お、おちちゅいて」

 自分よりも冷静でない者がいると自然とこちらが冷静になってしまうのはなぜだろう。先ほどまで見せた漢気はどこへ消え去ったのやら、あわあわとパニック状態に陥っているジェロニモを見てマティアの涙が引っ込む。すっかり泣き止んだマティアをジェロニモの不安げに揺れている瞳が見つめた。

「その、さっきはあんなこと言ったけど、女の子とこんな関係になるの初めてだから……多分、本の人物みてぇにかっこよく……こう、スマートにできねぇズラ……」
「しょえは……わらひもおなじらよ。しょえに、ジェオニオは……かっこいいお」
「……」
「…………かお、まっか……」

 黙り込んだジェロニモの顔は先ほどよりも赤くなっていて、そんな正直な姿にマティアはくすくすと笑い声を漏らした。相手の言動で心が高鳴るのは、どうやらマティアだけではないらしい。ジェロニモも自分と同じ気持ちだと実感できて、ようやくマティアは居場所を見つけられたような感覚を覚えた。
 これから先、お互いはじめてのことだらけで、楽しいこと以外に辛いことも経験するだろう。それでもきっとジェロニモと一緒なら乗り越えていけるはずだ。
 そして、今まで読んだどの恋愛小説にも勝るジェロニモと二人だけの物語を紡ぎたい。
 マティアは自身の涙で濡れているジェロニモの手をそっと握った。



ジェオニオ、あいちてう。









【あとがき(とても長い)】
なにこれ恥ずかしい。ジェロニモ夢は恥ずかしいだよ!
これももとは過去に書いた夢の流用というかリメイクなんですが、4,500字が12,000字に増えてしまいました。お相手がなぜ夢主を好きになったのか深堀りがされてなかったのと、流用元は公式設定で半監禁状態の狭いエリアなので状況説明が少なくて済み……キン肉マンの世界は特に行動制限がされてないので自ずとエリアが広がるんですよね。完璧超人はエリア狭いから楽そう。

書いた当時は、耳が聞こえず、今まで愛情に関する言葉を他者から言われることのなかった夢主にお相手が教えながら伝えるのっていいなぁとの本当に軽い気持ちでした。すみません……。
リメイク中は中学時代の部活の後輩(耳が聞こえない。こちらの言うことはわかる)を思い出し、運動部だったこともあってミーティング以外では筆談する時間がなく、一方的なコミュニケーションだったなぁ、後輩も伝えたいことがあったんだろうなぁと胸がちくちくしました。手話も少ししていたけど今はまったくできないです。
リメイクするにあたり、生まれつき耳が聞こえないユカコさんが開設している『デフサポちゃんねる』を拝聴してどんな音が発音しづらいのか、発音の練習はどうやって行うのかを調べました。よくよく考えたら日本って音が少ないですよね……耳が聞こえなくて英語(米語)で発音ってハードルがとてつもなく高そうだなと感じました。LとRの違いとか頭にKがついてるのに読まないKnightとか意味がわからない。アルファベット覚えても発音しないのって難しいですよね?!

読み手さんには自己投影派もいらっしゃるので自己投影しやすいように心がけてしましたが『低い声』とか『耳をつんざく音』とか書いた場合、今までそのような音を聞いたことがない方は想像しづらかっただろうな~と……。私もバリトンボイスなんて書かれても想像できないので。
目が見えなかったり、手足を怪我して動かしにくかったりといった描写は自分で目を瞑ったり、足をひきずってみたりで経験できるので表現しやすいですが、耳が完全に聞こえない描写は本当に難しかったです。手で押さえても筋肉の動きかな? ゴーって聞こえますよね。極力、夢主視点の時は音の描写は入れないようにしました。でも、もしかしたら少し入れてしまっているかもしれないです。

思った以上に本文もあとがきも長くなってしまいました。
冒頭にも書いてあるとおり、聴覚障害の方を侮辱する意図はありません。ただ気分を害してしまったら大変申し訳ないです。本当にすみません。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

2024.09.24