カナディアンマン Happy Valentine's Day

 ふらりと立ち寄った百貨店。普段はあまり入ることはないのだが、人間の女性たちが色めき立って吸い込まれるように入っていくものだから気になってしまったのだ。
 百貨店では定期的にイベントを開催している。今回は特に女性が惹かれるような内容なのだろう。
 人波に混ざり、楽しそうな女性たちのあとをついていく。

「わぁ……」

 エスカレーターに乗ってたどりついた八階の催事場。天井から“Valentine”と書かれた赤色の垂れ幕が下がり、その下では様々なメーカーのチョコレートが綺麗に陳列されている。そして、そこに群がる女性たち。

(そっか、日本では女性から贈ることが多いんだっけ)

 まだ小さかった時に引っ越してからずっと住んでいたカナダでは、男性から女性へ花を贈ることが多い。そのため、自分がなにか準備をしなければならないといった意識がはじめからないのだ。
 そんな自分と比べて、周りの女性たちのなんと輝いていることか。みんな笑顔で、宝石でも眺めているかのように瞳はキラキラと輝き、頬は血色よく色づいている。友人と談笑をしながら選んでいる女子中学生、一人でじっくり吟味しているパンツスタイルの落ち着いた女性、母親と買いにきたのだろうか——小学生くらいの子どももいる。
 様々な年代の女性たちがそこかしこに溢れていて、馴染みのない他国の風習を女性向けに定着させた日本のマーケティングには舌を巻いてしまう。
 女性たちの熱気に当てられて、ふらふらと催事場を徘徊する。

(私も贈ってみようかなぁ)

 贈る相手として幼馴染のカナディアンマンが頭に浮かぶ。
 子どものころは毎年欠かさず貰っていたバラも大人になるにつれて受け取ることがなくなった……というより、カナディが多忙になってバレンタインがいつの間にか過ぎていた、が正しい。もしかしたら私の知らないところで恋人と過ごしていたのかもしれないけれど。
 日本に滞在している現在、女性の影は感じられないし、多くはないにしろファンからチョコレートを貰うだろうからそれに便乗しよう。そう思い、催事場をくまなく見て回る。
 おそらくバレンタイン専用にデザインされたと思われる外箱や中身のサンプルがずらっと並び、価格もピンからキリだ。数粒しかないのに数千円するものを見かけた時には、思わず一粒あたりの単価を計算ししまった。ほかにもジョークめいたものや普段スーパーで見かけるおなじみのチョコ菓子、手作り用のタブレットも専用のコーナーで販売されている。渡す相手も恋人や好きな相手だけでなく、家族や友人、普段お世話になっている人など、様々なニーズに応えようとメーカーもテナント側もかなり力を入れていることが伝わってきた。また“自分へのごほうびに!”と書かれたPOPも貼られていて、なるほど確かに一年に一度のイベントなら自分用に買うのもいいな、なんて妙に納得して一人で頷いた。
 日本のメーカーだけでなく、海外のチョコレートも取り寄せているみたい。催事場の端には什器に積み上げられた薄い箱、その前に国名と国旗のイラストが記載された札が置かれていた。各国から一、二種類ほど選別しているようだが、チョコレートで有名なベルギーやスイス、フランスは別格で専門のスペースが設けられていた。
 カラフルな箱に負けず劣らず、カラフルな国旗のイラストを眺め、カナダのチョコレートがあるか探す。帰国すれば食べられるであろう自国のものをわざわざ日本で買おうとは思わないが、取り扱っていたらそれはそれで嬉しいのだ。
 お目当ての国旗はすぐに見つかった。幼馴染を彷彿とさせる赤と白とサトウカエデの葉。カナダのチョコレートを見つけて、自然と顔がほころんだ。

(しかもこれ……)

 見慣れた赤い箱を手に取る。サトウカエデの葉を象ったチョコレートの写真がプリントされたパッケージは、子どものころにカナディと二人でよく食べていたものだ。学校が終わってからどちらかの家に行き、戸棚の奥に隠されていたこのチョコを一時間足らずで食べきってしまい、帰ってきた親に二人して怒られたことを思い出す。カナディは涙なんて見せずに、隣でべそをかく私の手をぎゅっと握っていたっけ。
 懐かしいなぁ。これをカナディに贈ろうかな。そこで価格を確認してぎょっとする。妙に高い。買えなくはないけど、日本に来るとこんな価格にされてしまうんだ……二倍くらいならまだ良心的なのかな。
 近くにあったプラスチックのカゴを取り、メープルリーフチョコを入れる。あとはスペシャルマンとプリプリマンと友人へ贈るチョコを買おう。
 私は友人たちの顔を思い浮かべながら、チョコレート選びに専念した。

◇ ◇ ◇

 ファミレスからの帰り道、オレの視界には同じチョコレートの箱が二つ。

「あ……カナディも同じの、買ったんだ」

 気まずそうな幼馴染は、オレに差し出したメープルリーフチョコをショルダーバッグにしまおうと手を引く。だから、その手を掴んでバッグ行きを阻止した。

「なんでしまおうとするんだよ」
「だって、同じチョコだし……」
「へぇ……お前に贈るつもりのコレを自分で食えって?」
「それは……」
「ほら、これはオレからな」
「う、うん……」

 押しつけるように自分が買ったチョコを渡し、代わりに名前の持っているチョコを奪うようにして取った。

「ありがとう」
「おう」

 こちらを見上げる名前の黒い瞳が、街灯の光を反射してキラキラと輝いている。その嬉しそうな瞳を見ていると子どものころを思い出す。
 学校が終わって、どちらかの家に遊びに行き、宿題そっちのけで戸棚から見つけたこのチョコレートをひたすら食べる——母親に怒られるとわかっていても、オレは「おいしいねぇ」と口や手を汚してにこにこしている名前を隣で見ていたかった。その笑顔が泣き顔に変わるのは可哀想だったが、手を繋ぐと高確率で泣き止むからずっと繋いでいたっけ。
 今、目の前の名前は口元に笑みを浮かべてチョコレートのパッケージをじぃっと見つめている。こいつはオレが贈ったこのチョコを一人で食べるのだろうか。それとも昔みたいに二人で——オレ以外の誰かと食べるのか。
 知らない男にあの時の笑顔を見せている光景を想像したらなんだかムッとしてしまう。

「なぁ、今度お互いの実家に挨拶に行こうぜ」
「ん? うん、いいけど……いつも行ってるからわざわざ言わなくていいのに」

 チョコレートからオレに目を向けて、おかしそうに名前は笑った。まぁわかんねェよな。

「いつもの挨拶じゃなくて、さ……結婚しよう」
「えっ……」

 黒いまんまるな瞳がさらに丸くなる。
 名前は間抜け面でオレを見つめたあと、泣きそうな笑顔でこくりと頷いた。

「私でいいの?」
「名前がいい。誰よりもオレのこと知ってるだろ」
「……カナディが私にそんな気持ちを抱いているなんて知らなかったよ」
「あぁ、それはさっき気づいたからなぁ」
「もう……遅いよ」
「ごめん」

 オレが謝ると名前はチョコレートの箱を胸に抱いて俯く。どうせまた泣いてんだろうなぁ。
 名前がオレのことを知っているように、オレもこいつのことはほかの誰よりも知っているという自負がある。お互いの裸だって知っている。まぁガキのころに真っ裸で湖を泳いだとか、そういうのだけど。ちなみにオレは当時、隣に引っ越してきたばかりの名前を男だと思っていて、つるつるのなにもない股を見て「いつか生えてくるから気にすんなよ!」なんて余計な気を遣ったもんだ。
 名前の黒髪から覗くとんがった大きな耳をなんとなしに見つめる。この耳のことで同級生の男たちからからかわれて、いつも泣いていたな。ただ、どんなに泣いていてもオレが手を繋ぐとすぐに泣き止んでいた。だから、今だってオレが手を繋げばすぐに泣き止むだろう。
 オレはもらったチョコレートを右手に持ち、左手で二回りほど小さい名前の手を握る。

「…………」

 すぐに泣き止むと思ったのに、名前は泣き止む気配を見せない。
 まいったな。名前はオレと同年代だが、日系のせいか外見が幼い。加えてオレと二人きりになると言動も幼くなる。そんな名前が真夜中の路上で泣いていて、その隣にオレ。見廻りをしている警察になんざ見つかったら非常にヤバい。
 とりあえず今晩はオレん家に泊まらせよう。そう思い、名前の手を引いて自宅へ向かう。
 静かな夜道にひっくひっくとしゃくり上げる声がやけに大きく響いている気がする。時折チラリと振り返りながら、なんで泣き止まないのか考えるが答えは出ない。
 寝て起きて、昼間に二人でチョコレートを摘みながら泣き止まなかった理由を問い詰めてやろう。
 意図せず明日(もう十二時を回っているから今日だ)の予定と婚約者が出来て、帰路に就くオレの足取りは浮いているかのように軽かった。

2025.02.14