ブロッケンJr. 異文化コミュニケイション2

「テヤンデイ! バッキャロー! オタンコナス! オレハ、クワネッテ、イッテンダロ!」
「ブロッケン!?」

 ブロッケンJr.がテーブルにフォークを叩きつけ、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。
 日曜日の昼食の最中、突然の出来事に私は驚き、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
 ブロッケンJr.は壁のフックに掛けられたリモコンキャップを取り、目深に被って玄関へと消える。

「ブロッケ——」

 慌てて立ち上がり、彼の後を追ったけどすでに姿はなく、パタンと玄関のドアが閉まった。すかさずドアから施錠の音が聞こえたから、合鍵は持っていたようだ。
 はぁ、とため息をつき、リビングに戻る。テーブルには私とブロッケンJr.の食べかけの皿があった。
 自分の席に座り、ぼんやりと向かいの皿を見つめる。
 ブロッケンJr.のお皿には手つかずのブロッコリーが乗っている。我ながらちょうどよい茹で具合の鮮やかなグリーンを見ていたら唇がふるふる震えてきて、自然と俯いた。

「くっ……ふふっ、ふっ……!!」

 ヤバい。ブロッケンJr.の捨て台詞が頭を占めて笑いが込み上げてくる。
“おたんこなす”なんて聞くのは小学生以来だ。あんな堀の深い顔で“てやんでい”もダメ。面白いから言わないでほしい。
 ここ数日、メインのおかずに茹でたブロッコリーを添えて出していたんだけど、彼の口には合わなかったようだ。そういえばかなり険しい表情でマヨネーズをつけて食べていたなぁ。ずっと我慢していたのかな。
 彼に申し訳ないと思う反面、笑いが治まる気配はなく、テーブルに突っ伏して小刻みに肩を震わせた。

◇ ◇ ◇

 マンションを飛び出したオレは、行く当てもなく歩道をとぼとぼと歩く。
 あーぁ、なにやってんだオレは……。
 暴言を吐いた時の彼女——アンナはひどく驚いた顔をしていた。それもそのはずだ。だって、オレはこの国の言葉でおそらく最上級の暴言を吐いてしまったから。
 だが、どうしても我慢できなかったんだ。
 数日前から食卓に並んだ茹でたブロッコリーにマヨネーズをつけて食べる。それがどうしても苦手だった。なんか青臭いし、シュヴァルツヴァルトを彷彿とさせるもしゃっとした食感と口の中に残るつぶつぶ。それらがどうしても受け入れられなかった。

「はぁ……」

 でもさすがに言いすぎだろ、とガキのような自分に呆れてため息が漏れる。
 彼女はここに来てしまったオレを何の見返りもなく保護してくれているのに……本当に酷いことをしてしまった。
 どうやらオレは無意識のうちにアンナに甘えているようだ。一緒に暮らす日々の中で、ふと姉がいたらこんな感じなのかと思う瞬間がある。出会った当初の緊張感やぎこちなさは消え、二人だけの穏やかな空間に頭のてっぺんからつま先までどっぷりと浸り、甘えているのだ。
 いくらオレがアンナを姉のように慕っていても彼女はそうとは限らない。得体の知れないあかの他人の男から罵声を浴びせられたのだ。さぞかし傷ついたことだろう。
 チキショウ! ひとりきりの部屋で涙を流すアンナを想像すると居ても立ってもいられず、踵を返して駆け出した。元の世界と似て非なるここで、オレの帰る場所なんて一つしかない。
 マンションまでの道中、ぐんぐん流れる景色の中に花屋を捉える。
 そうだ、あんなことをしておいて手ぶらで帰るわけにはいかねェ!! 財布は置いてきたが、ジャケットのポケットにはいつも紙幣を入れている。
 普段なら近づくことのない花屋に駆け寄り、店頭に並ぶバケツに入れられた花々を物色する。
 うーん……種類が多いからあれこれ組み合わせを考えているが、頭がこんがらがってきた。
 二輪、三輪だとみすぼらしいか? ラッピング代はいくらだろうか……。
 どの花を何輪買うか未定の状態で触れることも憚られて佇んでいると、花屋の出入り口からエプロン姿の店員が顔を出した。

「なにかお探しですか?」

 そうだ! 店員さんに任せばいい!
 これ幸いとばかりにポケットからくしゃくしゃの千円札を引っ張り出した。

「コレ……アー……Bukett、デス」
「……この金額分のブーケですか?」
「Ja!」
「メインのお花でご希望のものはありますか?」
「Uh……」

 店員は先ほどオレが見ていた花々を指差す。多分、ブーケに入れてほしい花を聞いているのだろう。ここはやっぱりバラだよな。

「Rose……デス」

 ピンクのバラを指差すと、店員は八分咲きのものを選んだ。本当は赤がよかったが、ここにはピンク色しかないようだ。

「少々お待ちください」
「Ja」

 店内へ引っ込んだ店員を見送り、軒先の花々を改めて眺める。バケツの手前の札には角ばった字(たしかカタカナってやつ)で書かれているであろう花の名前と金額が載っている。金額は二つ書かれていて数字の小さい方は税込みだ。
 オレがキン肉マンたちと過ごしていた時——といっても二ヶ月前のことだが、日本は消費税なんてなかった。でもドイツでは十四パーセントだったし、十パーセントはまだ安いと感じる。
 そういえばもとの世界の日本はショーワで、こっちはレーワで、そんなに年数は経っていないと思いきやショーワとレーワの間にヘーセーが三十年ほどあったらしい。ということは、もしこの年代にオレがいたら六十代か……孫が一人くらいはいるのかな——目元や口元に皴を刻んだオレの隣に寄り添うアンナの姿が浮かぶ。いやいや、彼女は姉のような存在でパートナーじゃねぇから。それに、生きている年代も世界も違う。
 超人のいないここは、本で時々目にするパラレルワールドや異世界と呼ばれるもので、本来ならオレたちは出会っていない。そして、いつかオレはみんなのいる元の世界に戻るはずだから——

「お待たせしました」
「……!!」

 突然声をかけられてビクッと体が跳ねた。人間に戻ってからどうにも鈍くなっているみたいだ。
 顔を上げて声のした方向へ見ると、笑顔で小ぶりなブーケを抱えている店員が目に入る。

「ア……アリガト、ゴザマス」

 礼を告げ、千円札を差し出すと代わりにブーケを差し出される。
 白とピンクを基調にしたブーケを受け取った瞬間、バラ特有の甘い匂いが香った。

◇ ◇ ◇

 お皿を洗い終え、濡れた手をタオルで拭う。ブロッケンJr.はまだ帰ってこない。事故に遭っていないといいんだけど——

「タダイマ……」

 カチャッとマンションのドアが開く音といつもとは違って沈んだブロッケンJr.の声が聞こえた。出て行った手前、気まずいんだろうなぁ。素直すぎる彼に思わず笑みが零れ、玄関へ向かう。

「おかえりなさい」
「Ja……」
「……」
「……」

 ブロッケンJr.は左手を背中に回していて、右手でキャップのつばを弄っている。目深に被っているから目元には影がかかり、彼の感情が読めない。あぁ、失敗したなぁ。翻訳アプリがあればもっと会話が続けられるのに……たとえば、左手になにを持っているの?とか。残念ながらアプリの入っているスマホはテーブルの上に置いたままだ。
 彼がなにを隠しているのか気になるけれど、もしかしたら私に知られたくないものなのかもしれない。詮索するのも気が引けて、私は曖昧な笑顔を浮かべた。

「えっと……ずっと玄関にいるのもさ……」

 気の利いた言葉も出てこないし、ドイツ語じゃないから通じてないだろう。とりあえずリビングを指差して自分は戻る意を示すと、ブロッケンJr.が顔を上げた。

アンナ
「わっ……きれい……」

 名前を呼ばれると同時に差し出されたブーケに目を奪われた。ピンク色のバラがメインでそれを引き立てるように白くて小さな花が周囲を飾っている。
 形を崩さないように慎重に受け取れば、手の中でくしゃっとラッピングのセロファンが音を立てた。オーロラカラーのセロファンは見る角度によって紫だったり緑だったり、色味が変わってラッピング込みで素敵なブーケだった。

「あり……Danke schön」

 ブロッケンJr.は時々頑張って日本語で話してくれるから、私もわかるドイツ語だけでも使おうと思い、ぎこちない発音でお礼を伝える。すると、ブロッケンJr.は口角を上げて柔らかく笑うもすぐにその笑みを消して口をヘの字にした。

「どうしたの?」
アンナ……」

 ブロッケンJr.は私の名前を呟き、なにか言おうとして再び口を結ぶ。気になるけれど急かすのは逆効果な気がして、私も口を噤んで彼の言葉を待つことに決めた。
「アー……」や「ンー……」と唸りながら、彼は何度も口を開け閉めしている。まだ時間がかかるならやっぱりリビングに移動した方がいいかな? 首だけ動かしてリビングのドアへ目を向けると「アンナ」とまた名前を呼ばれてブロッケンJr.へ目を戻す。

「……ゴメン、ナスッテ」

 あっぶな!! 変な声が出そうになり、慌ててブーケで口元を隠した。
 ヤバい。ヤバい。すっごい真剣なトーンで言うもんだからじわじわ笑いが込み上げて、自分の瞳が半月状になりつつあるのがわかる。でもブロッケンJr.は私に暴言を吐いたと思っていて、真摯に謝ってきたのだから笑ってはいけない。

「え~っと……Macht nichts」

 先日覚えたばかりの返事——気にしないで、を伝えたらブロッケンJr.はほっとしたみたいで、まとっていた空気を和らげた。

◇ ◇ ◇

 私はリビング、ブロッケンJr.は洗面所へと行く。花瓶はないけれど、確か使えそうな空き瓶があったはず……。ブーケを丁寧にテーブルに置き、キッチンの吊戸棚を漁る。

アンナ!」
「なーにー?」

 手を洗い終えてリビングに入ってきたブロッケンJr.がいつものように大きな声で私を呼ぶ。振り返ればそこには、キッチンカウンターに置いていたお皿を両手で持ち上げているブロッケンJr.がいた。
 お皿にはブロッコリー入りのジャーマンポテト。ブロッコリーをそのまま食べることに抵抗があったように見えたから、彼が留守の間に作っておいたのだ。
 どうやら私の推測は当たっていたようで、心なしかこちらを見つめる瞳はキラキラと輝いている。

「食べる?」
「Ja!」

 ブロッケンJr.は食器棚(の代わりに使っているカラーボックス)のカトラリー置き場から大きめのフォークを一本取り、いそいそとテーブルに着く。

「温めなくてもいい?」
「?」

 これは通じなかったみたい。ブロッケンJr.は軽く首を傾げたのち、じゃがいもとブロッコリーをフォークですくって口に運ぶ。
 にこにこ嬉しそうに頬張っている彼の横顔を確認し、私は空き瓶探しを再開した。

2025.04.12