ブロッケンJr. 異文化コミュニケイション

 仕事で疲れた体を引きずり、マンションの鍵を開ける。すると解錠の音を聞きつけたのかドタドタと走る足音が聞こえ、最近一緒に暮らし始めた同居人が顔を出した。

「オカエリ!」
「ただいま!」
「ゴハン、スル? オフロ、スル? ソレトモ、オレ?」
「え、何を見て覚えたの?」
「???」

 カタコトでにこにこしながら首を傾げている彼はブロッケンJr.――私が最近ハマった漫画『キン肉マン』のキャラクターだ。
 漫画の登場人物が何故ここにいるのか。私にも分からない。

 夏から始まった新作アニメをちょっと見てみようかな、なんて軽い気持ちで見たら面白くて、電子書籍で全巻購入し、ちまちまと休日に読み進めていた。王位争奪編で彼が渓谷に落ちていったところまで読み、少し悲しかったけれど放送中のアニメで登場しているし、実は生きていたとか生き返るんだろうと思っていた時、背後からドサッと何かの落下音と男性のうめき声が聞こえてきた。
 私が借りている部屋はいわゆる事故物件(といっても私の前に住んでいたお爺さんが病死してしばらくしてから発見されたって程度)で、そこそこ広い破格の2LDK。壁は薄くはないけれど時々隣人の騒ぐ声が聞こえるから男性の声が聞こえてもおかしくはなかった。でも、背後から声が聞こえるなんて初めてで、事故物件だから余計に怖くて。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と心の中で唱えながら意を決して振り向いた。
 リビングに隣接しているドアが開きっぱなしの私の寝室。その床になんとブロッケンJr.が転がっていたのである。心臓が飛び出そうなほど驚いてしまったのは言うまでもない。
 幽霊も怖いが軍服を着た大男も怖い。だけど痛そうに唸っているし、パニックになったうえに平和ボケしている私はとりあえず彼に近づいた(本当に警戒心がなさすぎて、あとからブロッケンJr.に「気をつけろ!」って怒られた)。
 彼の上体を起こし「All right? All right?」と壊れたラジオのように繰り返す私はなんとも間抜けだっただろう。だってブロッケンJr.はドイツ出身だから。でもドイツ語なんて知らないんだもん。
 何とか回復したブロッケンJr.は周りを見渡し、私を見て酷く驚いていたけれど、介抱したからかすぐに警戒を解いてくれた。多分、自分の方が強いからなんとかなるって余裕もあったと思う。
 漫画だと超人も人間も出身地関係なく話していたけど実際はそんなわけでもなく。翻訳アプリを使ってぎこちないながらも会話をして、ひとまずブロッケンJr.は自分の置かれている状況を理解したようだった。ただ、彼には漫画のこととそれに登場するキャラクターだということは伏せておいた。自分が実際には存在していないなんて知ったら私はショックだしね。
 幸い、ブロッケンJr.はここでの生活にすぐに馴染んでいった。まぁ、キン肉マンの舞台と同じ日本だし、こっち少し未来なだけだ。
 超人のいない世界だから彼の体にあった刺青みたいな模様は消えて、人間に戻ってしまったようだった。最初は悔しそうだったけど、近くの温泉につれていったら「たまには人間になるのもいいな」なんて言いながらコーヒー牛乳をぐびぐび飲んでいた。単純な子だ。

 ブロッケンJr.は私がいない時は公園で走ったり、サブスクでドイツ語の字幕をつけて映画やドラマを見たりしているようで、変なセリフばかり覚えている。たとえばスーパーでおやつをおねだりする時。「ヨイデハナイカ、ヨイデハナイカ~」って大声で言うから悪代官好きな外国人観光客みたいになっていた。恥ずかしいからやめて欲しい。ほかにも日本の一人称が多すぎると話題になり、彼から「自分はどの一人称になるのか」と尋ねられた。そりゃもう“オレ”でしょう。
 ブロッケンJr.は“オレ”が気に入ったらしく、ことあるごとに自身を指差しては「オレ! オレ!」と言ってくる。なんだか可愛くて弟がいたらこんな感じなのかなぁって微笑ましい。

 そして、冒頭へ戻る。にこにこと子どものように笑って、ブロッケンJr.は私の返事を待っている。せっかくだからからかい半分で最後の選択肢を選ぶことにした。

「あー、えっと……Ich wähle dich.」
「Oh! Wirklich?」
「イ、イエス!」

 驚いたブロッケンJr.が目を丸くしてなにか聞いてくるけど全然わからない。しかもイエスって返しちゃった。恥ずかしいなぁ……選択間違ったかも。
 選びなおせる? ってドイツ語でどのように言うのかな、なんて思っていたらブロッケンJr.の腕が私の背中に回ってきてぎゅ~っと抱きしめられた。

「?!?!」
「Vielen Dank für Ihre Arbeit heute.」

 ブロッケンJr.のたくましい胸板に頬を押しつけることになるわ、意味は分からないけど低い声で囁かれるわでショートしそうになる。ちょちょちょ、今度はほっぺとほっぺをくっつけ始めた!
 心臓がバクバクと鳴って苦しい。日本じゃハグとキスの習慣なんてないから慣れないよ。これ以上抱きしめられていると死んでしまいそう。
 私の心臓の限界を察したのか、それからすぐにブロッケンJr.は体を離した。離れたら離れたで私の赤面を見られることになって恥ずかしい。
 案の定ブロッケンJr.は私を見て肩を揺らしてくっくっと笑った。

「Du wirst ja rot.」

 これはさすがになんとなく分かるぞ。私の顔が赤いって言っている。
 私はブロッケンJr.を睨み、熱を持った頬を両手で覆うように隠した。




ブロッケンJr.にはなぜか年上の夢主になっちゃうなぁ。恋愛感情は多分ない。
2024.09.04