五郎丸 鷹の仲人
森の中をやみくもに走る女がいた。女の名は雪。昨晩、住んでいた町を飛び出し、走っては歩き、歩いては走りを繰り返して一睡もせずに明け方を迎えた。
雪はぜぇぜぇと呼吸を荒げ、近くにあった丸太に吸い寄せられるように尻を置く。
(気持ち悪い……)
それは、滝の如く流れる汗でも空腹でキリキリと絞られている胃の感覚でもない。侍にまさぐられた自分の体が気持ち悪かった。
昨晩の仕事帰り、雪を裏路地に引きずり込んだのはしつこく迫ってきていた侍だった。必死に抵抗をし、不意を突いて逃げたが、以前借りている長屋にも来たことがあったから帰ろうにも帰れない。それに、侍に歯向かったと知れ渡れば――もうここにはいられないと、そう思った雪は着の身着のまま町を出た。
幸いにも昨日はお給金をもらえたからどこかの町か村に着けば少しの間は生活できる。
(でも、そこまでして生きたって……)
戦国の世ならばいざ知らず、徳川が平定した世の中にのさばる侍が雪はどうにも嫌いだった。大した努力もせずに武士の家系に生まれたというだけで偉ぶっていて、こちらが何もできないとわかって傍若無人な態度を取る――雪は今までそんな侍としか出会わなかったのだ。
権力を笠に着る侍も逆らうことのできない平民生まれの自分も嫌になる。
昨晩の体を這いまわった湿った手を思い出し、ぶるっと身震いした。あの感触を汗とともに洗い流したい。
(どこか水場ないかな……)
喉もからからで、ひとくちでいいから水を飲みたい。
雪は丸太から立ち上がり、じんじんと鈍く痛む足裏に顔をしかめて歩き始めた。
半刻ほど歩き、雪は空を見上げる。頭上には、ピィィと高い声で鳴く鷹が二羽、円を描くように飛んでいた。少し前からこの二羽がついてきているような気がする。
(私が力尽きるのを待っているみたい)
じっと見つめていると、鷹のキラキラ光る瞳と目が合った。
ピュィィィィ――
鷹は再び大きく鳴き、二羽揃って飛行速度を上げて雪の視界から飛び去ろうとする。しかし、雪が同じ方向へ足を進めたため、辛うじて見失うことはなかった。
雪は顔を空に向け、鷹を追いかける。なんとなく“こっちだ”と呼ばれていると思ったのだ。
疲労でふらつき、時折湿った苔に足を取られながらも雪は二羽の鷹を追いかけ続ける。
この先に本当に水場があるかなんてわからない。なければこのまま森の中で息絶えてしまうだろう。そして、二羽の鷹に啄まれる。そんな終わり方でも構わなかった。
もともとこの世に未練などない。空を舞う鷹の血肉となり、身分に縛られず、自由に飛び回るのも悪くない。そんなことを考えながら更に半刻ほど歩き、もう限界だと項垂れ、足を止めかけてハッとする。
ドドドドド――
大量の水が流れ落ちる音が聞こえた。雪は下がっていた頭を上げて空へ目をやり、鷹を探す。
(飛んでない……どこへ……?)
ずっと近くにいた鷹が見当たらず、きょろきょろと辺りを見回すと空へ高く伸びる樹の枝に留まる二羽の姿を捉えた。
まるで目的地に着いたとばかりに、二羽は高所から雪をじぃっと見つめていた。自分の亡骸を啄むかもしれない二羽だったが、今の雪は彼らに対して友情にも似た感情が芽生えていた。
雪は乾いた唇を自然と上げて笑みを浮かべ、そして咳き込む。
(喉が、からから……)
ケホンコホンと咳を漏らし、滝の音がする方向へよろよろと足を進めた。
「わ、ぁ……」
藪をかき分けた先には、ぽっかりと開けた空間が広がっていて、雪の口から感嘆の声が漏れる。右手にそびえる二十尺ほどの崖からはどこに貯えられているのかと思うほどの大量の水がとめどなく流れ落ち、大地を分断する幅広い川となっていた。川縁は常に跳ね返る水でしっとりと濡れている。
雪は滑らないようにそろそろと慎重に歩いて川縁まで行くと、ゆっくりしゃがんで水面に手を浸した。キンキンに冷えているかと思いきや、日当たりが良いせいか水はさほど冷たくはない。これなら汗を流しても風邪を引くことはなさそうだ。
雪は手をお椀のように丸め、水をすくって口に運ぶ。こくり、こくりと喉を鳴らして飲み、また水をすくって飲む。
「ふぅ……」
二、三繰り返すと渇きも癒え、雪は肺の底から深々と息を吐いた。夢中で飲んでしまったため水腹になってしまい、腹を擦りながら立ち上がる。
渇きが治まったら次はこのじっとりと汗に塗れた体を洗いたい。
雪は顔を左右に動かして誰もいないか確認する。こんな山奥に誰かいるはずがないと思っていても、つい警戒をしてしまうのだ。
(誰もいないよね……)
武人のように人の気配を読むなど出来ないので、見える範囲で人がいないか何度も確認する。きょろきょろとひとしきり見回し、雪は懐から出した財布を足元に置くと恐る恐る帯を緩めた。
しゅるしゅると帯を解き、近くに伸びている木の枝に掛ける。はらりと開く小袖も続けざまに脱ぎ、帯の隣に掛けた。汗で張り付いた襦袢が外気に触れてみるみるうちに冷たくなっていく。雪は再び周囲を確認し、意を決して襦袢を体から剥がした。
誰もいないと思っていても、衝立ひとつもない屋外で一糸まとわぬ姿でいるのは恥ずかしい。雪は襦袢をおざなりに枝に引っ掛けて草鞋を脱ぎ、追われるように川へ足を浸けた。
川の中腹に向けてゆっくり歩を進めると、徐々に川底が深くなっていく。膝まで浸かったところで雪は屈み、肩まで水に沈めた。
熱くもなく、冷たすぎもしない水に全身を包まれ、妙な安心感からふぅと息を吐く。
(近くの町に行って――行けたらだけど。どこか働けるところがないかな……できれば、住み込みがいい)
これからの段取りを考えてながら、草鞋の隣に転がっている財布を見る。お給金をもらったものの決して多いとは言えない。生きるか死ぬか、どうなるかわからない状況のため、無事に町に着いた場合を考えると極力使わないようにしなくてはならなかった。
雪は水中で肌を撫で、汗のぬめりを落とす。そろそろ出て体を乾かし、移動した方が良い。まだ太陽は真上に昇っていないが、近くの町までどのくらいの距離があるか不明なのだ。町に着けるのであれば、日のあるうちが望ましい。
立ち上がった雪は、緩やかな流れでも足を取られないように細心の注意を払って歩き、草鞋が置いてある川縁にたどり着いた。近くの岩に腰かけてから足を引き上げ、膝を抱える。汗を流せてさっぱりしたが、一夜足を動かし続けたせいかどっと疲労感に襲われた。体が乾くまでの間、少しだけ、ほんの少しだけ――周囲への警戒心は疲労によってかき消され、雪は目を瞑った。
「ん……」
背中がじりじりと熱い。雪は重たい瞼を無理くりこじ開け、指先で目の縁を数回擦った。
降り注ぐ陽の光で体はすっかり乾いている。空を見上げると太陽は少し昇っていたが、まだ真上には来ていない。それほど長く眠っていたわけではないとわかり、ほっと胸を撫で下ろした。
寝足りないが今度目が覚めた時には夜になっていそうで、雪は緩慢な動作で立ち上がる。
(着物も乾いたかしら)
汗臭いであろう着物を再び着るのは抵抗がある。しかし、中途半端に水だけで洗うとさらに臭さが際立ちそうで、乾かすのみに留めるしかなかった。
草鞋を履き、まずは干している襦袢を取ろうと近くの木立へ体を向け、雪はぽかんと口を開けて硬直した。着物が引っ掛かっている枝に、二羽の鷹が留まっていたのである。
目も口も真ん丸にして、雪は彼らを食い入るように見つめた。そんな雪を二羽は見つめ返し、ピュィーと甲高く鳴いたかと思うとまさしく電光石火――干していた雪の小袖と襦袢、帯を掴んでバサバサと飛び去ったのだ。
「……え?」
予想だにしていなかった鷹の行動に頭が真っ白になる。思考の止まったまま、ひらひらと空にたなびいて少しずつ遠ざかる白地に小花の散りばめられた布を眺める。その時間はわずか五秒ほどだったろうか。
「嘘……、嘘! 待って!!」
我に返った雪は彼らに叫ぶが、人間の言葉を理解するはずもなく、二羽は更に遠ざかっていく。真っ白になった頭の次は、顔が青くなる。
着の身着のままでここまで来たのだ。雪の全財産は、先ほど履いた草鞋と財布、そして盗られた着物類だけで一つとして欠かせない。特に着物は何よりも大切だ。このままだと全裸で町へ行くはめになってしまうし、森の中で息絶えたとしても――朽ちて骨になったころに発見されれば御の字だが、息絶えてすぐに見つかるのなら全裸は避けたい。
雪は急いで財布の紐を腕に通し、二羽を見失わないうちにと駆け出した。
水を飲んで少し休息を挟んだとはいえ、勢いよく地面に着地するたびに足はじんじんと痛みを訴える。本当なら今すぐに立ち止まって座り込みたい。けれど、雪の尊厳がそれを許さなかった。平民だと、女だと、侍たちから見下されても、誰だって持っている譲れない尊厳を雪も持っているのだ。
鷹から目を逸らさず、全裸で息を切らしながら走り続けていると、なぜ自分はこんな目に遭っているのか苛立ちが募ってくる。贅沢をした覚えも他人を害したこともないのに、どうして持たざる者から何もかも奪おうとするのだろう。裸で走っているのも、足が痛いのも、お腹が空いて疲れているのも、こんな山の中にいるのも、すべてあの男の――侍のせいだ。
悔しさと歯がゆさから滲んできた涙を拭い、雪は足を動かし続ける。走るはずみで草鞋からはみ出る指先が地面で擦れ、山道の両脇から飛び出た枝で腕を引っ掛かれても足を止めることはなかった。
しかし、気力だけで走り続けるのにも限界がやってくる。空腹と疲労で足は上がらなくなり、引きずりながら移動する姿はもはや走っているとは言えなかった。
(もう、駄目かも……)
足に力が入らない。限界を超えた膝がガクンと折れ、雪が地面に倒れそうになったその瞬間、追いかけていた二羽の鷹が下降を始める。それを目にし、雪は両脚にぐっと力を入れて踏ん張った。ここで転んでいたら鷹を取り逃してしまう。
すぅはぁと深呼吸を繰り返し、熱を持つ体を落ち着かせ、そろそろと歩いて鷹との距離を縮める。二羽は木々の梢に目もくれず、なおも下降を続けていた。
(地面を歩くのかしら……)
着物を掴んだままネズミやウサギといった獲物を捕れるとは思えない。よたよた歩きながら鷹を追いかけていた雪は、二羽の下降先に一人の男性を見つけ、ギョッとして藪の中に飛び込んだ。
(どなた?!)
藪に飛び込んだ際に葉や枝で引っ搔いた傷がピリピリ痛んだがそれどころではない。
極力音を立てないように近づいていくと、二羽の鷹はその男性に懐いているようで甘えた鳴き声を発していた。彼は何者なのだろうか。後ろ姿しか見えないが、恰幅のよい体と質の高い滑らかな緑色の生地の着物、そして腰に差している刀――恐らくは雪が嫌う侍で、鷹狩が得意なのかもしれない。
彼は二羽の鷹が持ってきた着物や帯に触れ、首を傾げている。
着物を返してもらうなら今しかない! そう思ったが、全裸であるため彼の前に躍り出るなんてできない。
雪は周囲を観察し、彼の近くに自身の体をすっぽりと隠せそうな大きな藪を見つけ、慎重に移動をし始める。途中、片手でぎりぎり握られる太さの枝を拾い、万が一襲われた時は応戦しようと心に決めた。
一歩、二歩――体を屈めてゆっくりと距離を詰める。男はどうやら二羽の鷹相手に話しかけているようだ。言葉を返さない相手になにを話しているのか気になった雪は、立ち止まって耳を澄ませた。
「だから、どこから……ピュィィではわからんではないか!」
(本当に話してる……)
雪が藪の隙間からうかがうと、男は鳴くだけの鷹に問いかけ、困り果てて月代をぽりぽりと搔いていた。その後ろ姿はなんとも人が好さそうな雰囲気を醸し出していて、彼に話しかけても襲ってきたり、不埒なことをしてきたりはないように思われた。
勇気を出して話しかけようか――そう思った雪だったが、男の手が襦袢に伸びているのを見て絶叫した。
「私の着物! 返してくださいっ!!」
「!?」
背後から何の前触れもなく聞こえてきた女の声に、男はビックゥと大きな体を大きく跳ねさせた。
振り返った男の真ん丸な瞳と、雪の吊り上げた瞳がかち合う。雪は男が言葉を発する前に、手に持っている枝を振り上げて口を開いた。
「そっ、そんな安物、あなたには必要ないでしょう!? 早く返してくださいっ!!」
悲しきかなこの世に生を受けてから今日まで目上の者には逆らわず生きてきたため、どなったとしても敬語が抜けず、迫力は微塵も感じられなかった。だが、男はそんな雪を見ても鼻で笑ったりはせず、呆け続けていた。何が起きているのかまだ飲み込めていないのだろう。
五秒、十秒経ってからようやく雪の状況を理解できたのか、首から上をカーッと赤く染めた。
「す、すまんっ!」
男はあわあわと手をばたつかせ、目に見えて動揺を示す。そして再び鷹に話しかけて、指笛を吹いた。
「わっ!」
どうやら彼は鷹匠らしい。指笛を聞いた二羽は男から離れて雪に近づくと、藪の上に小袖と襦袢、帯を放り投げた。雪は手にしていた枝を離し、お預けされていた餌に食いつく犬のようにバッと着物を手繰り寄せる。
やっと戻ってきた着物にほっと胸を撫で下ろし、男がこちらを見ていないかうかがった。
「……」
藪で隠れているとはいえ、裸の女性に視線を送るのは不躾だと思ったのだろう。雪がなにかを言う前に、彼はこちらへ背中を向けていた。
(いい人なのかな……)
男の広い背中を見てそう思うも、雪は即座に頭を振る。
鷹に着物を盗ませた人物なのだ。たった一度気を利かせたからといって簡単に信用してはならない。雪は男の行動に注意を払いながら、着物に袖を通した。
帯を締め、身繕いを終えた雪。
視線を感じて顔を上げると、木の枝に留まり、じぃっとこちらを見つめる二羽の鷹が目に入る。澄ました顔で見下ろしてくる彼らは、雪の着替えをずっと見ていたのだろう。友人のように思っていたのに着物を奪い、更に藪で隠れているものの、異性の前で全裸で過ごさせるなんてひどい。
なんだか裏切られた気持ちになり、雪はぷりぷりと頬を膨らませて藪から出た。
「あの……」
「なんですか」
雪の気配を察して振り返った男が声をかけてくる。思わずつっけんどんに返してしまったが、男はそんな礼を欠いた態度にへそを曲げることはなく、むしろ両手を合わせてぺこぺこと頭を下げてきた。
「まさか太郎丸と次郎丸が人様の着物を盗むとは……本当にすまない」
「あ……いえ……」
見るからに平民である雪に頭を下げる彼に驚き、雪は慌てて手で制した。それに、謝罪する者を詰めようとは思わない。
「頭を上げてください。……あの、太郎丸と次郎丸って鷹さんのことですか?」
「あぁ! 左の黒いのが太郎丸で、右の茶色が次郎丸だ」
雪の怒りが消えたとわかり、頭を上げた男は嬉しそうに目尻を下げて枝に留まっている鷹を指さす。寄り添う二羽は番にも見えるが、名前を聞くにどちらも雄だと思われる。
「兄弟なんですか?」
「違うが、そのように育てた」
雪の隣で同様に二羽を見つめる男の声はひどく優しかった。声だけでなく、彼自身もきっと優しい人なのだろう。
男は雪へ体を向けると、再度手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げた。
「着物を取ってこいと躾けたことなどないのだが――」
「も、もう、気になさらないでください。その、太郎丸様と次郎丸様は何か考えがあったのかもしれませんし……」
「考え……?」
「たとえば、私のことをあなた様に紹介しようとした、のかも、しれません……」
「はぁ……」
「へ、変なことを言ってしまってすみません! そろそろ失礼させていただきますねっ」
鷹が自分を紹介だなんて何を言っているのだ。
恥ずかしくなってきた雪は、話を無理やり切り上げて男に会釈をして離れる。
「あ……」
何か言いたげな男に軽く片手を振り、雪は彼が来たであろう方向へ足を進めた。
緩やかな下り坂。弾みがついて転ばないように歩いていると、遠くにそれなりに大きな街が見える。今まであまり外に出たことがなかった雪は、立ち止まり、瞳を輝かせた。あのくらい大きな街ならば、雇ってくれる店はすぐに見つかるはずだ。
(さっきの殿方もこの街から――)
先ほどであった鷹匠の彼もあの街から来たのだろうか。そう考えたところで、あっと声を漏らす。
自分の名前を告げていないし、彼の名前を聞いてもいない。聞いたのは二羽の鷹の名前だけだ。自分は名乗らずとも、彼の名前を聞いておけばよかった。
(あの街に住んだら、また会えるからしら)
生きていても仕方がないと悲観していた雪は、もうどこにもいなかった。
雪は懐に入れている財布を生地越しに撫で、街までの距離を一歩分縮めるのだった。